序
江沼地方史研究会会長 牧野隆信
山口くんが「続加賀・江沼雑記」を出版することになり、私もその原稿を一読する機会を与えられた。前回の「加賀・江沼雑記」と同様に、「農協かが」に連載された物が中心をなすとのことであるが、そうした連載物ではスペースが限定されている。そんな中で各部落の歴史的特性を表現することは、きわめて困難な業である。にもかかわらず、本書は実に要領よく核心をついている。
もちろんその為に、本書には従来の刊行資料はほとんど使用されているが、そのほかに、今まで知られなかった新知見が所々に見られる。その発見は著者が現地を何度も訪れ、古老の伝承を聞き出し、さらに現場について検証された結果である。今立村の天保ききんを物語る三界墓、別所村の十村の墓と称するもの、荒木村のタモの木と刀鍛冶、上木村の新保村等々はその一端である。前回「加賀・江沼雑記」の序でもあげたけれども、やはり「歴史は足で書くもの」でなければ説得力に乏しいことを、本書は十分に立証している。
君の研究の深化、発展を期待するとともに、我が郷土の発展のあとがいよいよ明らかにされてゆくことが心から喜ぶものである。
昭和 五十九年 四月
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
吉崎村(よしざき)
藩政期の吉崎村には、吉崎街道が走り、その国境に吉崎番所が置かれていた。
天保十五年(一八四四)の「江沼志稿』には、「仏経木山と云松山有、世俗吉崎持山ト云、此松山御印明暦四年渡ル、山井甚右衛門・林九郎右衛門裏書有、此持山ノ松二限、材取節松奉行極印不入」と、明暦四年(一六五八)に 松山であった仏経木山の自由伐採が許可されたことを記している。
これは松奉行の初見であるが、当時まだ山奉行と称するのが一般的であり、元禄年間に松奉行と称するようになったことからすると、信用度は薄い。仏経木山(ゴルフ場)は山頂を東御坊に、また山麓を百姓持山(吉崎村)にそれぞれ占有されていたが、大聖寺藩はこれを特別扱いしていた。
前記『江沼志稿』によると、藩政後期の吉崎村を「化粧町」とも呼んだ。故老は「当時越前吉崎にも番所が置かれていたが、御坊への参詣人・旅人などは検問を嫌って加賀吉崎で百姓着に替え、裏山より参詣及び国越えをしたため」と説明される。つまり化粧町とは、加賀吉崎村を指していた。なお化粧町と書いた古地図が福井県坂井郡浜坂町に保管されている。
永井村(ながい)
寛政六年(一七九四)の「御郡之覚抜書」によると、竹の浦泊で知られた永井村には出村があった。
藩政後期の『茇憩紀聞』には、「本村と出村の境にからつ屋敷といふ所あり、昔焼物せし所なり、寛政の比京師に久敷住居せしもの様子ありて此の村に住居す、此もの彼の屋敷より焼物の欠を掘出し、京師にて入魂の者に送りし処、此の焼をイスズ焼とて甚珍敷物なりと云ひ遣はせしとぞ」とある。
すなわち寛政期には出村があったこと、併せて出村近くでイスズ焼(そのころ京都で焼かれていたと言う)が焼かれたことがわかる。イスズ焼については、昭和九年に村田武雄氏(永井町)が「イスズ」と称する場所から素焼の杯七十余個を掘出していることからも一応理解できる。
また、『茇憩紀聞』には、「昔此の村に鳥見の徳兵衛と云ふ者あり、御鳥見をせし由なり、今に子孫の者鳥見の札を持伝ふ」とあって、徳兵衛は延宝四年(一六七六年)十月四日付で鳥見役に任命され、鉄砲・放鷹・網等による密猟者の摘発に当たった。ただ徳兵衛は臨時の鳥見役であったらしい。
右 村(みき=三木村)
天保十五年(一八四四年)の『江沼志稿』には、「大坂ノ茶屋エハ寅(東北東)ニ当ル、家二軒茶屋ヨリ其次三軒ノ茶屋エハ丑寅(北東)ノ間ニ当ル」とあり、藩政期右村に「大坂茶屋」と称する二軒の茶屋があった。
寛政六年(一七九四)の『御郡之覚抜書』では、右村の出村に「大坂茶屋」が置かれていたとしているが、その方角が違いすぎる。
ただ三十年ほど前まで出村には「雁田茶屋」が一軒有ったと言う。
また藩政後期の『越登賀三州志』では、「橘関より上の坂を大坂と云ふ」と、それを橘村に求めている。しかし、これも方角が違う。
故老(三木町)は「藩政期街道は笠取山の麓を通っていた。いまそこに清水がわき出て、地蔵が置かれている所がある。茶屋があった場所である。団子はなかなかの味であった。また大聖寺近くの街道には『蕎麦屋の坂』と言う坂があり、その上にも茶屋があった。蕎麦は名物であった」と述べる。
>いまでは茶屋跡らしきものは一切見られないが、前記『江沼志稿』に記している方角と一致することから、「大坂茶屋」は故老のいう笠取山の麓にあったあものと考える。なお安政三年(一八五六)の『江沼郡中高村名』によると、右村の大坂には一里塚があった。
三ツ村(みつ)
藩政後期の『茇憩紀聞』によると、昔当村の橋辺に御亭があったが、今これは大聖寺城下の松島船番所へ移されている。また那谷の丁子亭ももとこのちにあった。
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』では、橋辺の御亭を童話として歌ったことを載せている。
〽名所名所は三つ村の名所、山をかかえて御亭を持て、
前にそりはしそり名所
残念ながら今この歌を知る者はいない。故老(三ツ村)は「御亭山と言う、昔藩主が遊びに来た所で、入日松と呼ばれる松があったと聞いている。以前村の若い者が埋蔵金が隠されていると言ってよく掘りに行ったが、何も出なかった。今は高速道路が通って何もわからない」と説明される。御亭の位置については多少異論があるようだが、ここではその照合を避ける。
前記『江沼志稿』によれば、昔から当村では藩主在国の年について新穀を献上して来た。これは他村よりも十日ほど早く収穫され、しかもその俵が綺麗であったためであると言う。この時村役人は袴を身につけ郡所に出向いた。
荻生村(おぎゅう)
『加賀志徴』によると、村名は荻が多く生じる湿地に由来するが、『朝倉始末記』では天文二十一年(一五五二)に「ウギウ」と、また、北陸七国志』では、同年に「ウニキウ」とそれぞれ称したとある。
『加賀市史』には、親鸞絵伝裏書(大聖寺願成寺蔵)に「応永廿六年亥刻七月廿二日、加賀国熊坂庄内荻生」と、一五世紀前期戸当地に本願寺派の有力寺院、荻生願成寺(稲荷神社下にあったと言う)の存在を記している。これは今のところ当村の初見である。また宝徳元年(一四四九)本願寺七世存如が当地に留錫されたとして、現在町の西端に「存如上人御留錫之地」の石碑が建てられている。
一方、当町外れの錦城山下に「荻生地蔵』と通称される御堂があるが、故老(荻生町)は「前田氏が山口玄蕃の冥福を祈って建立したもので、以前はもっと小さなものであった。また近くに藩の操練所があったが、今も弾丸が出てくる」と言う。
明治四年の『荻生村巨細帳』には、当村に川舟二艘と渡し船一艘があったと記しているが、故老は「これは以前向かいの田畑に行くために使用したもの」と教えてくれた。
安政二年(一八五六)の「大聖寺藩領図」には、上木村の出村として中浜・上木新・新保の三カ村を載せている。
まず、中浜村は片野と塩屋村の中間の浜辺に位置していたが、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』では既に廃村となったことを記している。また上木新村は現在に至っているが、藩政後期の『茇憩紀聞』に「本村の田の中に天神の宮あり」と、前記『江沼志稿』に「此領地ノ内出村前惣而深田也」とそれぞれあって、そのころ上木新村が成立していたことがわかる。続いて新保村については、前記「大聖寺藩領図」の名称が唯一である。後者について、故老の話などを総合すると、出村の田に新田と称する場所があり、そこに多村民・流民などが住みついていたことを推測させる。いずれにしても故老らの述べる場所は前記「大聖寺藩領図」に記す新保村の位置と一致している。
なお、「新保」とは一般に出村を指す名称であり、藩領内の柴山潟北部に位置した新保村をはじめ、能州珠洲郡・同鳳至郡・同鹿島郡・同羽咋郡加州河北郡北部などに多く見られる。
山岸村(やまぎし)
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、下福田村に山岸(二八戸)・犬沢(九戸)の出村があったとする。
『太平記』によると、建武二年(一三三五)の「中先代の乱」に呼応した越中の名越時兼(全守護の子)が、上洛の途中大聖寺で「敷地・上木・山岸・瓜生・深町ノ者共」によって討たれた。
敷地・上木・山岸等は、『加賀市史』によれば、承久の乱後、福田庄(西は上福田・山岸、東は山田・河崎まで)の地頭として入国土着した狩野氏(伊豆国狩野荘を本領とする御家人の庶流)の一族で、南北朝より南加賀の有力国人となった。このように、山岸村はすくなくとも南北朝期に成立していた。前記『江沼志稿』にも当村に八幡神社が置かれていたと記している。しかし、山岸村は藩政期を通して「村御印」を受けなかった。つまり当村は下福田の一部として終始した。これについて牧野隆信氏は「下福田村にとって独立させられぬ何かの事情があったのではなかろうか」と述べられる。また故老は「下福田・山岸・犬沢三ヶ村の田が複雑に入り込んでいたため」と言うが、その理由は定かでない。当村名は、『白山之記』に載せる白山五院の一つ大聖寺に由来したことは確かだろう。
この大聖寺跡地について今のところ二説ある。一説は、藩政後期の『茇憩紀聞』に「津葉氏以大聖寺為城郭」と、大聖寺を修築して津葉城(錦城山にあった)としたと記すように、今の錦城山にあったとする。いま一説は、『加賀市史』に「社前に立つと、江沼平野を一直線に白山に正対しており、大聖寺の鎮趾とするのにふさわしい」と記し、現在の山下神社境内の南半を占める小丘陵(もと白山神社があった)にあったとする。牧野隆信氏は「白山神社跡地をそれとするには余りにも狭過ぎる。おそらくそれは錦城山続きの小丘にあったものでしょう」と述べられる。いずれにしても、両地とも付近から寺趾らしい痕跡はまだ見られない。ただ、当村の成立は、『白山之記』に記す大聖寺の初見である平安中期まで遡っても差し支えあるまい。
なお、『加賀志徴』に、往古慈光院(もと白山・神明両社の別当)は大聖寺と号したとあるが、天文年間(一五三二〜五四)当院が大聖寺の地に移されていて(「山下神社文書」)、白山五院の大聖寺とは異なる。
熊坂村(くまさか)
熊坂町には、「機織岩」(岩中より機織りの音が聞こえると伝えられる)の伝説や熊坂長範の伝説などで知られる妙高山がある。
『江沼郡雑記」には、「こうたけ等も生ず、、一名ジコと云う菌也、小なるは敷地の天神山・亦山代領コウガスと云う山に秋生ず、此妙高山の如くだいなるはなし」とある。すなわち藩政期妙高山(妙高谷とも称す)には、近郊に余り見られない「こうたけ」(別名ジコ)と称する茸が生じた。いま熊坂町では「こうたけ」の名前を知る人は少ないが、能登柳田村などではよく食べ、大きなものは三十センチを越えると言う。
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「山代領茸山・黒瀬領茸山御留山也、松茸生ズ、熊坂領山松茸多生」と、藩領内における松茸の三大産地として山代・黒瀬・熊坂を載せている。ほかに伊切村が知られるが、その味は「伊切松茸一品也」であった。山代茸山・黒瀬茸山は藩指定のもので、ともに留山(立ち入り禁止の山)であった。これは松茸のシーズン中の留山を意味したが、もともと両山は松山の範囲内にあった。
細坪村(ほそつぼ)
藩政後期の『三州地理志稿』によると、当村の下に細坪新村があった。
『同書』や『加賀志徴』には、古く当村に白鳥神社があり、近くの白鳥谷堤などはこれにちなんだ名称と記している。また故老(細坪町)は「昔、白鳥町がある場所は山で、白鳥神社があり、その境内には相生松と称する大きな二股の松があった」と言う。確かに天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、相生松、目通七尺五寸廻り二股ニ分ル」と、当村に相生松があったことを記載する。このことから、細坪新村が白鳥神社近くにあったとする一説がある。ただ白鳥神社については、『三代実録』の貞観十八年(八七六)七月二十一日の条に記す白鳥神社(河北郡津幡の加賀爪)と一致させたふしもあり、疑問視される。
寛政六年(一七九四)の『御郡之覚抜書』によれば、当村から出村までは十丁(約百九メートル)離れていた。この距離では、新村に白山神社近くにあったとするには離れすぎである。いまでは、耕地整理などによって、出村(新村)跡地らしきものは一切見当たらない。
百々村(どど)
天藩政後期の『茇憩紀聞』には、「此の領内に昔沼ありしを二百石の田地に開き、一村出来たる故に百々村と名乗る由云伝ふ」と、百々村はいわゆる「新開村」であったと記している。
百々村の成立は明らかでないが、正保三年(一六四六)の「高辻長」にその名称が見え、いまのところ百々村の史料的所見である。ただ『茇憩紀聞』には、「熊坂の城主の家臣とて、影山新右衛門・石塚伝次屋敷跡とてあり、また村の上山畑に寺屋敷跡あり、今に古井抔(など)もあり、以前は塔の跡とて形もありし由」と、一向一揆の武将の一人後藤才兵衛配下の影山新右衛門・石塚伝次両人の屋敷・寺屋敷跡が残っていたとある。つまり百々村の成立は、少なくとも中世末まで遡るはずである。
百々村は二百石を百石と表したが、その呼称について元禄十四年(一七〇一)の「高辻帳」では「ドド」と、『加賀志徴』では「トド」と、『加能郷土辞彙』では「ドド」と、『加賀市史』では「ドウド」と種々記している。今町名を「ドド」と呼んでいる。
曽宇村(そう)
『加賀志徴』によると、寺尾山の十一面観世音(前田家の祈願所)で知られた曽宇村の名称由来は、山の片側に寄りそう村という意味であるらしい。
「朝倉始末記」には、「牢人衆計賀州江沼郡ヘ打入、曽宇・直下村ヲ陣取ル」と、越前に退却した牢人衆が、天文元年(一五三二)八月二十日に江沼郡に侵入して曽宇・直下に陣取ったと記す。同様の記事が「北陸七国志」と、「加越闘諍記」とに見えるが、前者では「惣・曽曽利・裾織村」と、後者では「そう・すそ折村」とそれぞれ記している。いまのところ、右が曽宇村の史料的初見であるが、当時それはまだ曖昧に使用されていたことがわかる。いずれにしても曽宇村はかなり古い成立であったろうと考えられる。
一方、安政三年(一八五六)の「江沼郡中高村名」によると、曽宇村藤兵衛は越前中川村西光寺の道場を、また同村庄兵衛は同国大海浦法雲寺の道場をそれぞれ勤めていた。両道場は今も日尻・瀬川両家に継承されている。
直下村(そそり)
南北朝期の「梅城録」には、加州南部地名直下里。渓山如図面、有神祠号檜屋、乃北野君分化也、予施藤氏、以永和巳未五月朔、生干斯里」とあって、当時直下里に檜屋(ひのや)社が置かれていたことがわかる
『同書』は、永和五年(一三七九)五月一日に直下の地に生まれ、その後京都五山の相国寺の禅僧となった杲庵(こうあん=夢窓国師の弟子)によって編纂されたものであるが、彼が生きた南北朝には日谷村は未だ存在せず、その地は直下里の名によって一括されていたことが知られる。
ところで、「加賀国式内等旧社記」には、「檜屋天神社、檜屋村鎮座、祭神北野天神蓋(けだし)曽宇・直下・檜屋三谷之惣社也」とあって、三谷の惣社となった檜屋天神社が日谷村に置かれたとする。檜屋城の名称などからこのような考えもあるようだが、『江沼郡誌』に「始め天満宮と称せしが、明治六年二月檜屋社と改め、明治十四年八月十六日現今の名称とし」とあるように、檜屋天神社とは現在直下町に存する菅原神社のことである。このことは、故老によっても確認できる。ちなみに日谷町には、白山神社と八幡神社の二社が置かれている。
日谷村(ひのや)
古文書に「檜屋・日屋・日野谷・火谷・火矢」などと記された日谷村は、南北朝の「梅城録」によれば、当時まだ直下村の小名に過ぎなかった。
『加賀国古跡考』によると、日谷村の東山に十六間に八間の古跡跡があった。初築年月は明らかでないが、弘治元年(一五五五)朝倉宗滴は一向宗徒を破り本城を陥れた。永禄十年(一五六六)加越両国が和睦した際、将軍足利義昭は越前方の黒谷・大聖寺・檜屋の諸城を焼失させた。その後天正三年(一五七三)信長は檜屋・大聖寺両城を修復して戸次広正・佐々権左衛門を置いたが、同五年に上杉謙信が、また同八年に柴田勝家がそれぞれ同城を陥れた。さらに、藩政後期の『茇憩紀聞』には、「山の根より直下村◻︎平山の尾迄(まで)昔は土居あり、日谷川をたて込め、城山下湖水の如くなり」と、この城は日谷川を塞き止めれば、難攻不落の要塞となったとある。つまり檜屋城は中世末より近世初めにかけて重要な意味を持っていた。
『大聖寺藩史』には、八代藩主利孝(としやす)が近習侍を伴ってこの古城跡に登ったことを記している。
上河崎村(かみかわさき)
文政五年(一四四八)に越中砺波郡川崎村より移転した川崎専称寺で知られた上河崎村には、藩政期最後の切支丹が住んでいた。
「宗門諸事覚帳」には、「佐田四兵衛曽孫上河崎村次郎左衛門孫但石松倅市十郎、七十歳に而卯の刻宅病死」とあって、文政四年(一八一一)正月十日切支丹であった上河崎村市十郎が病死したが、これによって「御領内切支丹類族人無之」の状態となったと報告している。
「秘要雑集」に「切支丹類族の者は、改宗の後も三代は公儀にも御入念に改められる」とあるように、佐田四兵衛だけが切支丹であって、次郎左衛門・石松・市十郎はその類族であった。
その後、明治維新政府は、神道の国教化を推進するため、旧来の切支丹禁圧を続行した。『大聖寺藩史』によると、明治二年に長崎大浦で切支丹三千人が捕らえられる事件が起こったが、翌年そのうち五十人が大聖寺藩に送られて来た。かれらは、一ヶ寺に一〜三人ずつ預けられ、説諭によって十八人が改宗した。
このように、大聖寺に切支丹を送ってきた背景には、同藩の切支丹取締りの成功があげられる。
吸坂村(すいさか)
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「吸坂、昔陶器ヲ制ス、元禄十三年八月止‥‥中古瓦ヲ焼、暫ニテ廃、近年源太郎瓦ヲ焼、今焼、又同人陶器ヲ焼、暫ニテ廃」とあって、吸坂飴・吸坂焼・吸坂瓦・吸坂石で知られた吸坂村の成立を藩政中期以前に求めることができる。
大聖寺藩領における各村の高を明記した「高辻長」(正保三年・元禄十四年・天保五年)には、吸坂村の名称は一切見られない。その名称が資料に現れるのは藩政後期の『茇憩紀聞』と寛政六年(一七四九)の「御郡之覚抜書」とで、後者には「南郷の吸坂」と記しており、吸坂村は南郷村の出村であったことがわかる。ただ前記『江沼志稿』に、上河崎村の無高として「十五人(内八人男)吸坂分」、下河崎村のそれとして「十一人(内五人男)吸坂分」とあるように、吸坂村には高持がおらず、無高についても右両村に分収されていた。つまり吸坂村は、いわゆる「村御印」による独立一村になることができなかったのである。
なお『江沼郡誌』では、同村を黒瀬・南郷・上河崎・下河崎四ヶ村の入会地であったとしている。
黒瀬村(くろせ)
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、当村に城廻(黒瀬掃部の居地)・覚道屋敷(黒瀬覚道の居地)・的場(まとば)・寺屋敷・竜の腰(覚道の露地跡)・御坊などと称する場所があったと記している。
『朝倉始末記』の享保四年(一五三一)八月十七日の条に「和田超照寺能美・石河ノ小一揆七千余騎ヲ引率シテ、山田房主・黒瀬覚道退治ノタメニ寄来」と、一向一揆の将「黒瀬覚道」の名が見える。併せて『同書』には、円鏡・左近(覚道の子)・藤兵衛・五郎左衛門・左京・掃部・兵庫等の名も載っている。彼らは黒瀬一族と称される国人で、資料に「黒瀬堂」と記されているのはその坊舎であろう。ともあれ、荒木村の出村とされる当村の名称は、右の黒瀬党に由来したと考えられる。
前記『江沼志稿』には、「覚道ノ仏トテ、木像ノ弥陀ヲ源右衛門ト云者所持ス」とある。この覚道が持っていた阿弥陀仏像(高さ八十センチほど)はその後源右衛門(覚道の末裔で、今の本谷家と言う)が保管してきた。現在、これは公民館に所蔵されている。
荒木村(あらき)
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「昔者当領迄江ニテ船ヲ繋シト、今ニ宮ニタモノ木ノ古木有、古舟繋シ木也ト」と、古く荒木村まで入江で、神社のタモの木に舟をつないだと記している。
当時、江沼潟(江沼神社から北潟に至る湿地帯を言う)の湿地が当村まで広がっていたと考えられる。今でも白山神社裏などに多く出る貝化石によっても一応理解できる。また同神社の境内にいあるタモの木について、故老(荒木町)は「少なくとも四百年以上経ているが、これは以前にあったタモの木が枯れ、その根横に新芽を吹いたものと伝えられる」と述べる。なお境内より古墳後期の須恵器が出土したとして「埋蔵文化財包蔵地」の標識が建っている。
藩政後期の『江沼郡雑記』によると、黒瀬村領には黒瀬滝(加毛志我滝とも称し、もと荒木村領であったと言う)があり、当村出身の刀鍛冶荒木八郎(のち大聖寺に住んだ)は、この滝水を用いて刀を打った。その鍛冶場跡とともにおおくの金屎(かなくそ)が見られたと伝えるが、今は定かでない。鬱蒼(うっそう)とした竹藪の中に三重になって少量の水を落とす高さ五メートルほどの滝があるだけである。
別所村(べっしょ)
古くから水不足に悩まされてきた別所村の由来については、今のところ二説がある。
一つは『加賀志徴』に邑名(むらのな)を別所といふは、近村よりの出村にて、別の所に家を建てしたる故の名ならん」とあって、いわゆる出村に由来するものである。二つは『江沼郡誌』などに、山代薬王院の二人の僧が当地で別れたので別僧と称し、これが転化したとするものである。
これについて故老は「別所とは七カ村に隣接した村名に用いるもので、ここでは山代・桂谷・上原・塚谷・長谷田・中田・河南の七カ村を指す」と言う。つまりこれは出村に由来するもので、前説に近い。
米谷実氏(別所町)は「昔、力田・坂野両家の場所に十村が住んでいた。十村はある年の飢饉に際して藩に掛け合い、ついに年貢の軽減を認めさせた。それが九月六日であった。その時以来、九月十五に行われて来た秋祭りを九月六日に行うようになった」と述べる。この十村の墓といわれるものが共同墓地にあるが、(もと山手にあったものを移した)、墓石が朽ちていて文字の解読は不可能である。天保十五年(一八四四)に戸数二十二であった小村から十村が出たものか疑問が残る。
保賀村(ほうが)
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』は、当村に粟嶋社(薬師)天満宮(十一面観世音)・白山社の二社があったと記している。
当町の東端には樹齢三百年以上と言われる老杉(二本)とタモの木(一本)があり、その下に石の祠が置かれている。盗難によって今は見られないが、以前この祠の中には薬師如来の木像が安置されていたと言う。これについた『江沼郡誌』では、往昔此の地に鉱泉湧出(ゆうしゅつ)せしが、通行の一非人之を汚したるため、忽ち湧出を止めたるなり」と口碑を載せている。また故老は「昔当村から湯が湧き出たが、山代村より湯が少なくなると云われ、その場所を埋めた」とも言う。前記の粟嶋社とはこの薬師如来を指すものと考える。
前記『江沼志稿』には、「此村山林ナシ、故ニ外村領ニアル荊棘(けいきょく)ヲ取来、薪ノ一助トス」とある。すなわち山林のない保賀村では、他村の山林よりいばらを切り取り薪の代わりとした。黒瀬・荒木両町の山林より、いばらを切り取ったものと考える。また黒瀬には保賀の共有地があることから、両村の山林よりいばらを切り取ったものと考える。他村には見られないことである。
勧進場村(かんじんば)
寛政六年(一七九四)の「御郡之覚抜書」には、「高辻絵図村名出村分」として多くの出村を記していて、当時山代村には中野・長峰・勧進場の三出村があったとしている。
天保八年(一八三七)の「江沼郡変地帳仕立」には、
一、当時新村ト相唱如此改ル 山代村之内
亨 勧進場村
且御絵図ニ山代之内ニ有之候得共、此度山代村枝郷ト出来ニ付其通ニ改ル
と記している。すなわち山代村の出村としての勧進場村は一応はあったが、此文書に「新村ト相唱」とあるように、以前は単に山代新村と唱えていたのは今後「勧進場村」をもって正式名称とすることを再確認している。
ところで、三代加賀藩主利常によって一ノ瀬用水の鎮守となった山代神明宮には、寛永二年(一六二五)に勧進場が開設されている。つまり勧進場村は、勧進場にちなんだものであることがわかる。ただその成立期は、山代新村と称した時期もあり、明確でない。
長峰村(ながみね)
天保八年(一八三七)の「江沼郡変地帳仕立」には、
一、退転 天保五年也 山代村之枝郷
書出ニ不及 亭 中野村
一、森村ト中代村トノ間江書加 山代村枝郷
亭 長峰村
と、山代村の出村として中野・長峰両村があったことを記している。
まず、中野村には、すでに天保五年に退転すなわち廃村と化し、あえてここに「書出ニ不及」と役人が朱書している。その跡地は、明治八年の「耕地見取図扣(ひかえ)」によると、現在の山代20区に位置している。また長峰村は、前記の「江沼郡変地帳仕立」によってその存在が知られたが、藩政後期の『茇憩紀聞』や天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』にはその名称がなく、それにかわって山代新村の名が見られる。その跡地は、前記の「耕地見取図扣」によると、現在の山代19区に位置している。
しかし、山代新村と中野・長峰両村との関係については、その位置が少々違っているようで、軽々しく同一視できない。
桂谷村(かつらだに)
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、当時桂谷村に「岩神社」(岩上神社)があったとある。
いま、これを『江沼郡誌』によって見ると、「菅原神社 ‥‥ 元桂谷社といひしを明治十五年四月十五日今の社号に改む。古書に岩神社といふもの、或(あるい)は是(これ)か」と、菅原神社と同一視している。現在、前者は桂谷口に、後者はそれより約一キロ下の通称天狗山の向山にそれぞれ置かれていて、両者の関係は見られない。後者については、単に椎木が生い茂った杜の中に大きな岩が散在するだけの、神社と称するに程遠いものである。ただその崖下に「岩上神社」と刻んだ石柱が建てられていることで、そこが神社だと知ることができる。故老によると、御神体になる自然岩は古くから天然痘の御払い神として近郷近在に知られていた。
一方、桂谷の名称は、『加越闘諍記』の天文二十一年(一五五二)の朝倉宗滴加賀出馬の条に見えるが、現在でも桂谷町の半数が福井県興宗寺の門徒であることからすると、同村は一向一揆の擾乱(じょうらん)期に、越前から逃れてきた一向門徒衆によって成立したもののように考えられる。
上野村(うわの)
藩政後期の『茇憩紀聞』には、「この村昔は二カ所にあり。一ヶ所は二ツ屋境六兵衛坂といふ処にあり」とある。
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』によると、寛文三年(一六六三)二代大聖寺藩主利明は上野新村の神明宮に三百歩を寄進している。つまり六兵衛坂にあった一村とは上野新村のことで、市の瀬用水の普請中に成立した出村であったと考える。「二ツ屋」境とあるのは明らかに誤記である。正保三年(一六四六)の「高辻長」には、当村の新田高百三十一石四斗八升を明記している。これについて故老は「市の瀬用水が通ってからは上・下村と呼んだが、その前は上・中・下の三村があった」と言う。前記『江沼志稿』には、当村に大宮(白山社)・小宮(八幡社)・神明宮の三社が置かれたとあり、古く三村に分かれていたことも考えられる。しかし、藩政期上野新村は村御印を受ける独立村とはなることはできなかった。
なお、前記『茇憩紀聞』によれば、昔当村には大永(一五二一〜二七)の年号が記された古い獅子頭があった。しかし今ではその話もほとんど伝わっていない。
二子塚村(ふたごつか)
二子塚町の北約二百メートルほど離れた田の中に「狐山」と称する前方後円墳がある。(昭和七年に発掘され、人体・鏡・玉などが出土した)。また今はその外形を留めていないが、昭和二十年頃までは同町に「山根」(二子塚古墳)と称された古墳もあった。同町名も二つの古墳に由来したものであろう。
藩政後期の『茇憩紀聞』には、「字を華立(はなだち)といふ所に、芝原六尺四方許(ばかり)、踏めば其の音大にひびく、何様土中空なるべし、瓶(へい)にても埋みあるかと所の者いえり」とあって、当時まだ古墳の存在が知られていなかった。またこれには「此の辺より夜分火出ずる事度々あり、時により火の五・六十も出ずる」と、古墳より火玉が出たことを付記している。
『聖城怪談録』や『加賀志徴』には、火玉に関する数多くの話を載せているが、そのほとんどが二子塚・畑両村でのものである。
『後書』から一例を記すと、「六郎左衛門が亡霊にて、彼古墳より出ずる処にして、すでに今数百年を経たれども、火は尚出ずる」とある。面白いのは、これら火玉が夏の夜、竹藪に出ていることである。
松山村(まつやま)
松山村に関する古文書には、必ずと言ってよいほど「松山古城」のことを記している。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いに際して二代加賀藩主利長は、西軍に属した山口玄蕃を大聖寺城に攻めたが、その本陣を松山城に構えたことなど特筆される。(「山口記」)。
『加賀志徴』には、「此村は無高にして田地なし、おもふに、松山てふ邑名(むらのな)は、古城跡のつづき都(すべ)て松多く植えたる山なるから、邑名とも成りたるならん」とある。古来、松山村の石高は少なく、藩政期でも領内一村の平均以下であったが、無高となることはなかった。また村名の由来を松が多かったことに求めているが、「中院文書」の天文十五年(一五四八)五月十六日の条に「松山竜花院」と見え、当時松の植栽はまだ一般的でなく、松山城にちなんだ村名と考えたい。つまり松山城は、交通の要所ということもあり、かなり古くから置かれていたものであろう。
しかし、『加賀志徴』によると、城山と称する場所は二カ所あった。一つは大山と称する者で、徳山五兵衛の居城跡と伝えられる。
二つは南に位置した御亭山である。
栄谷村(さかえだに)
栄谷町には、白山三寺の一つ栄谷寺跡で「寺の谷」と称する場所がある。
藩政後期の『茇憩紀聞』には、「宮の内に大なる石舟あり、此の石船は那谷御普請の時分、御用にて是迄持付け、人足共休みけるに再び動かず、無是非此の宮に置きたりと云ひ伝ふ」とある。いま石舟(三尺×六尺×三尺)は白山神社の境内に置かれているが、故老は「小松中納言(利常)の死去に際し、その石棺に当てるため神社の境内まで運んできたが、ここで予定の変更を耳にして放棄した。石は山中谷のものだが、不思議なことにこの中のたまり水にぼうふらの発生を見ないことだ。またこの水を飲むとおこりが治った」と述べる。石船の使用目的はわからないが、意外にもその真意は故老の話の中にあるのかも知れない。なお明治四十二年白山神社には、廃村の「山本神社」(山本村)が合祀された。
同じく、『茇憩紀聞』によると、那谷道の分校と栄谷の境には「徒跣(はだし)坂」と呼ぶ所があった。これは花山法皇の御屋敷跡で、村人は跣(はだし)でここを越えたことによると言われる。
宇谷村(うだに)
永享十一年(一四三九)の『白山之記』によると、通常白山五院と称するものの、その後那谷・温谷(うだに)・栄谷の三カ寺を建立して八院となった。またこれには「加州温谷護法寺護摩堂上閑闕如間染筆了」とあって、『同書』の書写が温谷護法寺で行われたことがわかる。
那谷・宇谷・栄谷は白山信仰とのつながりの中で成立した由緒ある各村であり、「源平盛衰記」の安元二年(一一七八)の湧泉寺諍闘の条に「三寺四社」として那谷・栄谷・宇谷の三カ寺名称が見られるように、その成立となると古代にまで遡ることができる。藩政後期の『越登賀三洲志』には、温谷栄谷両寺の名称が見られず、戦国の争乱によって一時廃虚と化したものと考える。現在、両町に存する「白山社」は白山三寺とのかかわりを今に伝えている。
藩政後期の『三洲地理志稿』には、藩領内における石の産地として滝原・菩提・南郷・宇谷など八カ村をあげているが、故老は「昭和二十七・八年頃コンクリート土台の出現によって石切りが行われなくなるまで、他産地のそれに比して軟らかく、また軽いため二倍の生産が可能で『宇谷石』と呼ばれた」と説明される。町奥の「岩穴」という場所はその跡地である。
高尾村(たかお)
永享十一年(一四三九)の『白山之記』に載っている白山五院(柏野寺・温泉寺・極楽寺・小野寺寺・大聖寺)の一つ小野坂は、古くから今の高尾町にあったとされているが、その場所については次の二説がある。
一説は、『加賀志徴』に「小野坂を打越えたる所を三ツ股と云ふ、其辺に古寺跡ありと云ふ」とあることから、現在の小野坂隊道口(橋立寄り)付近に求めている。いま一説は、『江沼郡誌』に「天台宗に属せしが、蓮如の来錫し真宗の興隆せしと共に壊滅に帰せり、今同字氏白山神社は、小野寺の鎮なりしならん」と記すことによって、高尾村の出村が存したとされる大山の山麓に位置したとする。後説の立場に立つ三森定男氏は、戦後間もなく右出村付近より堂塔の礎石と平安中期を下らぬ古瓦片を多く出土したことを『加賀名跡志』に載せている。右が高尾廃寺跡と考えられる。
なお、藩政後期の『茇憩紀聞』には、「所々に穴あり、村の東の金糞谷と云ふ処の穴、三十間許入りたるものあれど、夫(それ)より奥へ入る者なしと云ふ」とあり、これらの横穴を造った意図は明らかでないが、高尾村は古代の往還に沿って成立したことが推察される。
黒崎村(くろさき)
「源平盛衰記」によると、寿永二年(一一八三)の篠原合戦の時、平家は其先陣を安宅に、後陣を黒崎・橋立等に構えた。
藩政後期の『茇憩紀聞』には、「この領より橋立領へかけて海端に松林あり、大木なり ‥‥ 此林のうちに経塚あり、経石ありと云ふ、また首塚ともいへり」とある。いま松林と畑の境に「篠原合戦首塚」(大正期のもの)と称する石碑があるが、『橋立町の歴史』によれば、明治期に経石はなく、自然石が積み上げられていた。つまりこれが首塚であったことになる。
他方、「寺院明細帳」によると、建暦元年(一二一一)より明応二年(一四九三)まで黒崎村には、越前藤島超勝寺の末寺「黒崎称名寺」があった。その後深田村へ移されたが、その時同寺の経典を埋納したとも考えられる。
いずれにせよ、「篠原合戦首塚」は、
一、称名寺の近傍に位置したこと、
二、景勝の地にあったこと、
三、街道筋にあったこと、
等の経塚条件を満たしている。なお藩政期黒崎村には、深田村称名寺のの道場が置かれていた。
橋立村(はしだて)
明治十一年の「江沼郡式内社位置図」には、もと出水神社は泉の間近くの海中に位置していたとある。
『加賀国式内等急社記』によると、古く出水神社は泉の間と称する海岸つづきに鎮座されていたが、波濤によって海中に没し、出水山(御山)に遷した。『越登賀三洲志』には、安永当時(一七七二〜八〇)まだ二百間程突出した崎(みさき)があったと記している。明治四年に現在の蛭場山(ひるばのやま=山崎)に鎮座した。そのころ崩れ・鳥居崎と称する場所(海中)に、古社の石二十余と鳥居が見えた。しかしこの石に触れると、たちまち風雨になるといって誰も近寄らなかった。
『加賀志徴』によれば、泉の間(橋立浦)は海底岩が一町余にも及び、波の静かなときは五十〜六十艘が泊まれることのできる船泊であった。古代において時折渤海(ぼっかい)(六九八〜九二六)・高麗(九一八〜一三九二)の客船なども入港したが、年々崎が崩れて利用されなくなった。
なお、元禄八年(一六五九)橋立村には船番所が設置され、(『加賀市史』)北前船の根拠地として栄えた。
小塩辻村(おしおつじ)
藩政後期の『茇憩紀聞』によると、当村には紋兵衛山と小四郎山があり、この両山の間に敷地村へ通じる「富樫街道」があった。
富樫街道について『加賀志徴』には、当時まだ細帯ほどの道が残っていたとある。つまり古代の官道が当村を通っていたことがわかる。また紋兵衛山・小四郎山について『江沼郡誌』には、当村に置かれた十村名を付けたもので、天保十二年(一八四〇)、藩はこの両山に信濃麻を植えたと記している。
藩政期を通じて当村には十村が置かれていた。特に鹿野家有名である。元禄六年(一六三九)初代小四郎は、藩命により、吉崎村から当村に引越しをさせられた。著名な「農事遺書」は彼の筆によるものである。また九代小四郎は伊切浜など防風林を造成したことで知られる。
両山について鹿野小四郎さん(片山津温泉)は、「小四郎山は初代小四郎が、また紋兵衛山は彼の娘婿がそれぞれ藩より賜ったもので、九代小四郎が植林の功績によって得たそれとは異なる」と述べている。いま当町には十村屋敷跡が二カ所ある。椎の古木のある「古屋敷跡」と称する所と、町端の竹藪(十二代のとき移ったと言う)がそれである。
伊切村(いきり)
天保八年(一八三七)の『江沼郡変地帳仕立』には、「 新保村之枝郷」としての伊切村を記している。
『加賀郷土辞彙』の「部落沿革表」には、大聖寺藩領の各村を記したもの二種を収めている。一つは万治三年(一六六〇)より文政四年(一八二一)までのもので、他の一つは文政四年より明治二年(一八六九)までのものである。後者において伊切村の名称を見るが、ただこれには「笹原の内」と付記している。今のところその所見は藩政後期の『茇憩紀聞』に求められている。ともかく、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』では、早くも四十一戸を数える村となっていた。またこれには「塩役毎歳出来高二石ニ六分宛」ともあって、「村御印」による正式な独立一村となったことがわかる。
ところで、故老の一人は「藩政中期孕女(はらみめ)が越前より逃れ住んだことによって成立した村である」と述べ、いわゆる「出村説」を否定している。この話は今も各町でよく耳にするが、ただ現在伊切町の半数が福井市や坂井郡三国町の三寺(善覚寺・願念寺・称名寺)の門徒で占められていることに留意したい。
敷地村(しきじ)
菅生石部神社で知られる敷地町には、「富樫の馬塚」と通称される祠がある。
祠の横の立て札には、およそ次のようなことが記されている。室町期富樫三郎は大聖寺で誤って谷に落ちでしまった。猛吹雪のため一命を失うところ駆け去った馬が口に餅を咥えて現れた。この餅で餓えをしのいだ富樫は、菅生石部神社まで来て動かなくなった馬を斬り殺してしまった。冷静になってみると、自分を助けたい一心から草屋の主人を殺して餅を咥えて来たが、犯した罪を知って同家の前で動かなくなったことを悟った。愛馬を殺した富樫はこの地に馬塚を設けた。これは『三州奇談』より引用したものと思われるが、藩政後期の『茇憩紀聞』には、「馬の首塚にあらず、往古四月午日・十一月午日に勅使立ちて御衣を御寄附あり、此の時古き御衣を此の所に埋み幣を立つる、此の日をおり衣の祭りといふ、昔より重き後神事といへり」と前説を否定している。しかし、明治二十九年の「菅生石部神社建物配置古図」には御衣塚が四カ所も見られ、後説は明らかな誤りである。
なお、藩政期菅生石部神社は「敷地天神」とも称され、加賀・大聖寺両藩主より数度の寄進を受けた。
天日村(てんにち)
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、大菅波・小菅波両村の出村で「茶店ヲ業」とする天日村があった。
「寛政六年(一七九四)の「御郡之覚抜書」や天保八年(一八三七)の「江沼郡変地帳仕立」では、「小菅波ノ天日」と記している。藩政期天日村の前山社(現在の天日神社)が小菅波村領に置かれていたことからすると、小菅波の出村であろう。その成立期は明らかでない。『加賀市史』では、慶長年間大聖寺領主山口玄蕃が小菅波村の天日岩助に茶屋を建て与えたことを載せている。また年代不詳(明治期か)の「天日村ノ履歴書」にも同時期の成立を明記している。これについて故老は「昔から天日には田畑がなく、百姓をするものはいなかった。藩政期から明治中期まで大茶屋・畑屋・紺屋の三茶屋があり、いずれも天日家を称した。茶屋の名物は小豆餅であった」と述べる。いずれにしても、藩政期に官道の整備がされることによって茶屋が置かれたものと考える。
前記『江沼志稿』によれば、藩政期領内には、橘茶屋(粽)・大坂茶屋(団子)・日天茶屋(鮎鮓)・初坂茶屋(八坂茶屋とも記す。飴)等の茶屋が置かれていた。
弓波村(ゆみなみ)
忌浪郷・忌浪庄の名で知られた弓浪村には、歴史的に著明な場所が二カ所ある。
一つは弓波廃寺跡である。藩政後期の『茇憩紀聞』によると、当村の東の畑中に法道寺と称する寺屋敷跡があり、そこに大石が一つある。今、その石は神社の手洗石として使用されているが(百九十×百五十×高さ百七十五センチの長円形で、その中に七十×六十九×二十二センチの柱穴が穿(うが)ってある)、『江沼郡誌』では「天台宗より真宗に変ぜし際、仏像仏具を地中に埋め、其上に築きたる宝塔の台石なりといひ明治維新の際神社内に運び」と説明している。
二つは延喜式以来の忌浪神社である。『加賀志徴』には「江沼郡上古沼たる時、此社の辺へ船着す。依って帆の宮と称し、地を忌浪と云ふ。後世に至り転じて、社を穂の宮とも称し、稲実神を祀ったことを記している。安永九年(一七八〇)の百姓一揆、明治四年の「みの虫騒動」のときには、共に当社に百姓が集まった。
文明八年(一四七八)の『回国雑記』に「しき地・いみなみ打過ぎて」とあるように、当時まだイミナミと称していた。
砂走村(すなはせ)
『江沼郡誌』によると、明治二十二年の町村制の施行時潮津・野田・宮地・小塩辻・大畠・千崎の六字をもって潮津村が成立したが、字潮津にはさらに小字「砂走」があった。
『片山津町史』によれば、古く片山津の温泉湯は柴山潟の中(島を形成)にあった。明治気になって潟畔の埋め立てが行われ、島まで地続きとなったが、片山津村と潮津村との境界に位置したこの地域を「砂走」と称した。ただ、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』に「此村ノ上ニ昔出村有」と記されていることをもって、これを右砂走と一致させるむきもあるようだが、少し無理がある。ともあれ、明治期に温泉場が形成される過程中に砂走が成立したことが推測される。田谷こんさん(片山津温泉)は「昔潟中の砂中からお湯が沸き出したので、『砂走場』と称するようになった。現在の矢田屋旅館前に位置し、明治十年に、近藤・中西両氏によって温泉旅館が二軒建てられたのにはじまる」と説明される。
すなわち、砂走は、薬師山の砂を流水客土によって柴山潟に流し込んだ結果としての造成地域名である。従って、明治初期に「砂走温泉」と名付けようとする話もあったと言われる。
柴山村(しばやま)
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』によると、柴山潟(古くは日本海の入江)には十五カ村が属していたが、この中の柴山・片山津・川尻など十カ村は「魚猟ヲ以産業ノ一助」としていた。
藩政後期の『茇憩紀聞』には、農閑期右村々が特異な漁法を行っていたとある。すなわち冬期間桜木(枝を付けたもの)を潟中に入れ、これを「ツケ」と云うが、鯉・鮒などを竹で追い出し、さし網で捕った。また潟端に深さ五〜八間四方の穴を掘り、同様に桜木(木に臭がないため)を入れて置いた。出水の後にその水を汲み出し、魚を手捕りにした。故老によれば「ツケ」(『フシ』とも称し、柴山村に限って許可された)は鯉を、また「ソダ」は雑魚を捕るためのものであった。
また、『茇憩紀聞』には、「潟端の村々潟のうちに領分分かれあれ」と、当時の潟内を先十カ村によって区分したとする。つまりそれぞれに漁業権が認められていた。
安政二年(一八五五)の『大聖寺藩領図』によってもわかるが、藩政期柴山潟は江沼・能美両郡の入会領で、串川により今江潟とも通じていた。両潟に木場潟を加えて「加賀三湖」と称した。
藩政後期の『三州地理志稿』には、中島村の垣内に「上中島村」があったとしりしている。
これについて、故老(中島町)は「古く当村は沼の中之島であった。動橋川に沿って、川上の方を上中島・下の方を下中島・川の西側を西手と称した。今では単に上・中・西と呼んでいる。村は三カ所に分けられているが、神社も一つであり、昔から一つの村であった」と述べる。安政三年(一八五八)の「御郡中道場之覚」によると、中島村善兵衛は月津村興宗寺の下道場を務めていた。彼はいわゆる下中島に住んでいた。現在、下中島・西手ではほとんどが興宗寺門徒であるが、上中島は篠生寺(動橋町)門徒が多い。天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』では、当村に白山社・神明社・八幡社の三社が置かれていたと明記している。もっとも三社が三カ所に分置されていたかは明らかでないが、中島村に出村「上中島」があったことが考えられる。ただ上中島は行政上の独立村とはなり得なかった。
前記『江沼志稿』によれば、当村には矢田・月津・片山津などとともに葭役(よしやく)が壁屋に売ったが、残りは屋根葺き、葭簀(ず)等に使用した。
箱宮村(はこみや)
寛政六年(一七九一)の「御郡之覚書書」には、「打越村領地境田ノ中ニ鐘シズミ有之由、前ニハ印付モ有之由、今ハ印付ケナシ、此鐘山代専光寺ノ鐘ノ由、昔専光寺箱宮領住居也、寺跡アリ、合戦ノ時分ハコビ落シ候ト云伝也」と、箱宮村に山代専光寺が建立されていたことを明記している。
このことは藩政後期の『茇憩紀聞』にも載せられているが、寛政五年の「専光寺由緒覚」によると、同寺は天徳年間(九五七〜六〇)越前坂井郡新郷に創建された天台宗の道場にはじまり、承元元年(一二〇七)真宗に転ずるとともに専光寺と改称した。その後一向一揆に際し、「大永五年(一五二五)新郷を退き、加賀国江沼郡塔尾(とのお)村に移る。其後同郡箱宮村に移り」となった。箱宮村での存続期間は明確でないが、第十世祐意だけが同地に住んだことからすると、そう長くはなかったであろう。
その後、天正年中(一五七三〜九一)に溝口秀勝はその御堂を大聖寺の城下に移したが、箱宮村における山代専光寺は箱宮神社の北側に位置していたと伝えられる。
中田村(なかだ)
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』によると、中田・長谷田・上原・塚谷・河南の五ヶ村には「紙役」が課せられていた。
「聖藩年譜草稿」には、四年丙辰中田五郎兵衛二股村へ足軽小頭栗村茂右衛門添て紙すき習に被遣、是より追々廣る」とある。すなわち延宝四年(一六七六)に二代藩主利明は、殖産興業の一環として中田五郎兵衛と足軽栗村茂右衛門二人を、紙漉きの先進地河北郡二股村に遣わしてその技法を習得させた。その後中田・長谷田・上原・土谷・塚谷の五カ村でいわゆる「紙屋五カ村」を形成したが、寛政六年(一七四九)の「御郡之覚抜書」では、十村組「紙屋谷」として十七カ村の総称名に使用されるまでになった。
前記『江沼志稿』には、「邦内ノ楮(こうぞ)七歩、他邦の楮三歩」とあって、原料の楮は他藩領のもので補われていたが、藩領内では曽宇村のそれが有名であった。ともあれ、戦後(昭和二十三年ごろ)まで副業として続けられた紙屋谷の紙漉も、今では農業用水として利用される紙屋谷用水と同用水紀功碑(塚谷町)を残すだけである。
風谷村(かざだに)
安政二年(一八五五)の「大聖寺藩領図」によると、風谷むらの外れの街道左側に御番所(足軽一人)が、また右側に山番小屋(山番ひとり)が建てられていた。
藩政期の風谷村は炭・薪を中心とした林業を営んでいた。このことは、村御印の小物成として「炭役・山役」が賦課されていることからも窺われる。これらは越前に売り出されたものらしく、藩は度々その他領出しを禁止している。宝永元年(一七〇四)には奥山方八カ村に対し(「御算用上留書」)、また文政四年(一八三一)には越前境の村々に対し(「御法度締り方写」)、次のような禁令が出された。
一、越前境の村々炭・ほえなどに至るまで少も他領へ出さし申さざるよう厳しく申し付候
すなわち、御番所・山番小屋にはこのような炭・薪の他領出しを監視する一面を持っていたものと考える。
「奥山遊覧記」によると、熊坂越より風谷峠までを口峰、これから大内峠までを大奥峰と呼び郡奉行は十年毎に大奥峰より口峰までを巡回した。
我谷村(わがたに)
山中温泉より大聖寺川沿いに国道を車で走ると、しばらくして我谷ダムに出会う。そこから県民の森に向かって県道を走ると、程なく道路右側に小公園のように整備された場所があり、その中央に旧我谷町を偲んで「古里の碑」が建てられている。
県営我谷ダムの建設は昭和三十四年より始まり同四十年に完成したが、我谷住民は山中町や加賀市などに多く移転した。また残った住民は栢野町の上に我谷町を作った。我谷ダムの水位が下がった時、その町跡を見ることができるが、古里の碑の下に立っている大欅などは八幡神社の境内のものと言われる。また神社の石段も県道上から見ることができる。
『全国遺跡地図』によると、大聖寺川沿いの菅谷・栢野・我谷の三町には縄文中期の遺跡が残る。これより奥にはそれが見当たらないことから、我谷町は縄文中期以来の古い村とも言える。また最近古里の碑の近くにある経塚から甕棺(かめかん)が発掘され、我谷村の成立は少なくとも中世まで遡ることができる。
九谷村(くたに)
九谷焼の発祥地で知られる九谷村には、いま一つ名の通ったものがある。千束・女郎の滝である。
藩政後期の『茇憩紀聞』には、「凡そ高さ百間といへり、寛文年中(一六六一〜七二)の比、千石原と云ふ所にて木を多く剪(き)り流せしに、此の滝壺へそだ千束沈むといふ、夫(それ)より千束の瀧と名付けしとぞ、これより八町あなたに女郎ケ瀧とてあり」とある。これによって千束瀧の由来が知られるが、併せて九谷村において木を多く伐採したこともわかる。
『同書』によれば、惣兵衛が昔から渋紙に包み天井に釣り下げて大切に保管してきたものがある。これを見ると目がつぶれると言われてきたが、享和の頃(一八〇一〜〇三)郡奉行の巡見の際、開いて見ると、次のように書かれていた。
制札 江沼郡くたに村
右於此山、松木・栗木以下剪取事堅令停止訖(おわんぬ) 若背此旨輩(ともがら)有之則可処厳科者也
慶長十八年二月二日 利光
すなわち、三代加賀藩主利常(利光は前の名)は御山林を指定したのである。当時九谷村には、林相のすぐれた山林が一帯に繁茂していたことが考えられる。
市谷村(いちのたに)
明治中期九谷村より大聖寺川の支流杉水川に沿って市谷・西住(さいじゅう)・杉水(すぎのみず)・上新保の四カ村があった。いま杉水以外は廃村と化しているが、ただ市谷村跡には川魚料理店が一軒建っている。
市谷村の初見は、今のところ正保三年(一六四六)の「高辻長」に求めているが、これには「一ノ谷」と記している。寛政六年(一七九四)の「御郡之覚抜書では併用となり、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』以降において「市谷」と明記するようになった。これについて上出勅氏(枯淵町)は「発音によって字を当てたもので、、意味はほとんどない」と述べる。ともあれ、天保十五年に八戸(三一人)あった市谷村も、過疎化の波の中、昭和四十五年遂に廃村となった。
「奥山遊覧記」には、「左に金山穴有、昔銅出たる跡のよし」と、九谷村同様に市谷村でも銅を堀り出したを記しているが、今もその採掘穴らしきものが数多く見られる。また藩政後期の『茇憩紀聞』によると、川向かいの崖では蝋石が採取され、「石筆」として大正期まで小学校で石板に字を書くのに用いられたという。現在の採石場辺りといわれるが、定かではない。
西住村(さいじゅう)
九谷町より県民の森へ向かう半ば近くに西住村跡があり、その杉林の中に西住霊碑がある。
『加賀志徴』によると、治承年間(一一七七〜九)に西行法師は弟子の西住を従えて北國行脚をした際、九谷村辺でしばし足を留めた。西行法師は都へ戻って行くが、西住は深山幽谷の景色が忘れられず、この地の草庵に住んだ。これを西住村の始まりとしている。ただ藩政後期の『茇憩紀聞』に「今村中に西住塚跡とてありしとぞ」とあることから、前記『加賀志徴』や『江沼郡誌』では、建久四年(一一九三)八月三日に西住がこの地で亡くなったとしているが、多少疑問が残る。つまり西住の臨終の場所は、越中の砺波・越前の山麓・洛北のほとり・紀州の高野など多く挙げられる。
ともあれ、天保十五年(一八四四)に十戸(四十八人高持、二人無高)あった西住村も、大正九年に八戸(三十四人)となり、遂に昭和二十九年に廃村となった。なお廃村に際して神明社は、山中町の白山神社の跡地に遷座された。毎年九月に西住出身者が簡単な祭りを行っている。
杉水村(すぎのみず)
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』の神社の項によると、下谷村より大聖寺川沿いに点在する十八カ村中、杉水・市谷・大内等九カ村には「八幡社」が置かれていた。
同じく『江沼志稿』には、「下谷ヨリ奥山方、アチラ谷深山ノ半覆迄、山畑ヲ作ラムツシ畑ト云」とあって、下谷村以奥では米不足のため焼畑を行っていたことがわかる。八幡社は焼畑の神であるが、西谷地域にこれが多く見られるのはこうした事情によるものであろう。
藩政後期の『茇憩紀聞』には、「この領内又は上新保辺山中に産するほくち茸とて、木の剪口杯(など)に生ふると云ふ。火のつく事妙也。土民此の茸をかんこの代わりに用ゆ。色白くなる茸にて、鍋茸(なべたけ)といふ茸の類なり」とある。すなわち杉水領の山中には「ほくち茸」と称する茸が生えたが、火がつくことからかんこ(山野での仕事時、蚊・蚋(ぶよ)などを追い払うために布片などを燻すもの)として用いた。
また、白色の大きな茸で木の切り口に生じ、「鍋茸」の一種であるとも記されているが、いま故老でこれについて知る者はいなかった。
今立村(いまだち)
今立町の外れの畑中に、半ば雑草に覆われた「三界墓」と称する石碑がある。
天保の飢饉は全国各地で夥しい餓死者を出したが、今立村も例外ではなかった。『江沼郡誌』では、「天保八年(一八三七)大飢饉あり、今立にて餓死瀬下の七十六にんにして、七十戸ありし中二十四戸絶家す、今其地に石碑あり、嘉永二年(一八四九)に立つる所なり」と報告している。
この石碑には、「天保八年亡霊、南無阿弥陀仏」と刻まれているが、天保の飢饉に際しての餓死者を弔ったものであろ。また当村の戸数が四十六に減少しているのに対し、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』では、四十九戸(一八五人)と早くも復興の兆しを見せている。
江戸の三大飢饉(享保・天明・天保)では、雑草・木の根・松の皮・藁・土まで食べたと言われる。川原長吉氏(今立町)は、「天保の飢饉以来、この町では味噌を八年間分ほど貯蔵するようになった。そのため子供の頃は黒くなった味噌ばかり食べていた」と話される。ただ『大聖寺藩史』に「人相食むとも云べき」と、その悲惨な状況を載せているが、事実は明らかでない。
荒谷村(あらたに)
「奥山遊覧記」や安政二年(一八五五)の「大聖寺藩領図」によると、鶴ケ滝で藩内にその名が聞こえた荒谷村は、上・下両村より成っていた。、あた天保二年(一八三一)の「荒谷古城之図」では、上・中・下の三カ村があったとする。
『江沼志稿』の神社の項に、上荒谷村には「神明社」が、下荒谷村には「白山社がそれぞれ置かれていたことを記している。樫田初次郎氏(荒谷町)は「明治初期に神明社は白山社へと遷座せられたが、上荒谷が下荒田にに併合されるようなことはなかった。長い村であったため単に上・下に区別して呼んだものだろう。神明社の跡地は今もある」と説明される。ただ勝光寺(小松市)の下道場は上・下にそれぞれ置かれていて、問題が残らないわけではない。
しかし、前記『江沼志稿』では、村御印が一つで藩は行政上一村として扱っていた。
『茇憩紀聞』には、「此の領に岩のひたひより塩出づる所あり、味ひ見るにからき事塩の如し」と、荒谷村に塩が出た事を記しているが、今は誰も知らない。
滝 村(たき)
藩政後期の『茇憩紀聞』によると、荒谷領近くの滝村領には、藤丸新助の居城とされる赤岩城跡があった。
天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、赤岩城は下荒田に寮にあったと記している。また『加賀志徴』では、『茇憩紀聞』の立場を踏襲して「在滝村領、此遺跡今僅かに山上に方六間計の平地あり」と記している。現在赤岩城跡は滝町に位置しているが、当時まだ素の領域が明確でなかったことが想像される。さらに『江沼志稿』では藤丸新助の家臣居跡が菅生谷村にあったと記しているが、「藩国見聞録」にも「今立村仁左衛門と云ふ者あり、昔藤丸新助の代官の家のよし」とあり、右にあげた赤岩城が藤丸新助の居城であったことは間違いあるまい。
明治二十二年に滝・菅生谷・中津原等十一カ村によって東谷奥村を成立させたが、『石川県町村合併誌』に「菅生谷・滝・中津原は奥村の区域を離れ、口村の区域に入りたき意見ある」と菅生谷・滝・中津原三カ村は口村への編入を要望した。これに対し県は「三村を分離せば残り少数の区域となり将来の維持に差支へ困難なり」として却下した。
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |