『 加賀・江沼雑記 』

 『 加賀・江沼雑記』は、江沼地方史研究会名誉会長の山口隆治氏によって、既に加賀市農業協同組合の「農協かが」(昭和五十四年の五月号〜同五十七年の八月号)、山中中学校新聞「炉笛」(昭和五十一年〜同五十四年)、三谷婦人会誌の「しゃくなげ」(昭和五十二年の七月号〜同五十七年の十二月号)等にそれぞれ発表されたものを、整理したものです。

 山口先生は、加賀の古史書を調べ、自ら現地に赴き確かめ、当地の古老から話を聞き、検証してまとめられた一冊です。現在は、廃本となっていたものですが、山口先生のご協力を得て、ご紹介する機会を得ました。

 加賀市の近世の村制度や町の由来を知る上で、とても貴重な資料です。一読されることで、さらに加賀への愛が深まることと思います。本書に基づきながら、ひと町ずつ 紹介していければと思っています。 



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      目 次             

塩屋村(しおや)     永井村(ながい)

橘 村(たちばな)      三木村(みき)

中浜村(なかはま)   犬沢村(いんのさわ)

極楽寺村(ごくらくじ)  熊坂村(くまさか)

細坪村(ほそつぼ)   曽宇村(そう)

直下村(そそり)    日谷村(ひのや)

大豆田村(おおまめだ)   加茂村(かも)

山代村(やましろ)    山代新村(やましろしん)

初坂村(はつさか)    勅使村(ちょくし)

横北村(よこぎた)     柏野村(かしわの)

山本村(やまもと)      片野村(かたの)

宮 村(みや)        深田村(ふかだ)

小塩村(おしお)      平床村(ひらどこ)

大菅波村(おおすがなみ)   作見村(さくみ)

山田村(やまだ)      富塚村(とみづか)

宮地村(みやじ)      星戸村(ほしと)

津波倉(つばくら)     八日市村(ようかいち)

庄村(しょう)        動橋村(いぶりばし)

河尻村(かわじり)    院内村いんない)

潮津村(うしおづ)     篠原村(しのはら)

日天村(にてん)      土谷村(つちだに)

菅谷村(すがたに)     大内村(おおうち

坂下村さかのしも)    小杉村(こすぎ)

真砂村(まなご)      大日村(だいにち)

大土村(おおづち)     四十九院村(しじゅうくいん)

        

          地 図




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塩屋村(しおや)

鹿島の森(塩屋町)

 北前船の古里で知られる塩屋村には、風光明媚な「鹿島の森」(鹿島明神を祀るが、一時大聖寺藩祖利治が万宝院を建立して日蓮宗の道場となった)が存するが、以前より些か変貌したように思われる。早速、塩谷町の古老に尋ねてみると、「以前は川幅が広く、両岸には葦が覆い茂っていた。また、鹿島の森も円形の美しい森であったが・大戦中の防空壕などによって形を変えてしまった」と説明が返ってきた。

 藩政後期の『茇憩紀聞(ばっけいきぶん)』には、「川を隔てて加嶋の森あり。吉崎より湖の内に加嶋道あり、昔はなし。此の辺を蛇島といふ。昔は一円湖にて嶋二つあり」とある。つまり、このころ「鹿島道」が出来たことがわかる。天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』にも、古く鹿島近くに存した蛇島・右島・中島・大島等が年々田地と化し、いまでは蛇島の地名を残すだけになったと記している。

 右については、寛政期に瀬越村が砂押出し(飛砂)により塩屋村之端に移ったことからもわかる。また、現在も海中に見える「八丈が岩」辺には、古く街道が存したといわれる。このように、塩屋周辺には大きな自然変貌があったことが窺われる。 


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永井村(ながい)

永井大橋(永井町)

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、「永井橋のほとりを竹の浦といふ。

此の辺蛇嶋とつづき舟入しとぞ」とある。すなわち、古代永井村には「竹の浦泊」(永井町の神社近くという)が存した。

 『源平盛衰記』によると、かの源平の戦いは、倶利伽羅合戦以降、その舞台を加賀の宮腰・安宅・竹浜へと移して来た。その竹浜は、「竹ノ浦泊」の入江とほぼ同一の海岸に存し、源平合戦はいわゆる「竹ノ浦泊」の拠点争いとなって展開したのである。「竹ノ浦泊」は長江郷に属し、古代の朝倉駅近くに位置していた。その後、「竹ノ浦泊」はその役割を一時失うが、周知の如く、藩政後期から明治期にかけて隆盛をみる北前船とともに再び復活するのである。

 藩政期の永井村一帯は、葦が生い茂る江沼潟(江沼神社から北潟まで)の湿地帯が大きく広がっていた。したがって、『茇憩紀聞』に「貝(蜆貝=しじみがいか)なども此の浦の名産といへり」と記すのも当然といわねばならない。なお、『江沼郡誌』には、「入江の沿岸に竹叢多かりしを以て、竹の浦の名を生じ」とある。


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橘 村(たちばな)

旧街道(橘 町)

 藩政期の橘村には、宿駅(『延喜式』に記す朝倉駅という)が置かれていた。

 『江沼郡誌』には、「橘は上下二部落に分かれ、その駅は上橘にありし故に、一に茶屋橘とも称す」とある。すなわち、当時橘村は坂の上・坂の下両村に分かれていた。このことは、明治四十年に多知波那上社と多知波那下社が合社され、いまの多知波那神社が誕生した経緯からもわかる。右の情勢について古老(橘町)は「藩政末期に上橘村には十五戸の家があった。明治四十四年頃には五戸となってしまった。昭和三年に最後の一軒であった米一家が下橘村に移り、遂に上橘村は廃村となってしまった」と説明する。

 なお、天保十五年(一八四四)の『江沼郡誌』によれば、上橘・下橘両村の村御印は一紙であった。つまり、上橘村(橘茶屋村)は行政上の独立村となり得なかった。粽(ちまき)を名物にしていた。その他、大聖寺の生菓子・天日の小豆餅・日天の鮎鮨・吸坂の飴等は、茶屋名物として知られた。


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三木村(みき)

三木町

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、「往古は此の村の前蛇嶋よりつづき湖なりしと云ふ(略)今に新四郎屋敷の字を村の者ジャブジャブと云ふ」とある。古く三木村一帯には、江沼潟が広がっていた。

 幕政末期の『加賀志徴』には、三木村の由来を次のように記している。古く上木村の浜辺には深い谷(福田川が流れていたという)がある。そこに檜木などの良木が生い茂っていた。この良材を「御木(みき)」と称した。上木村の名は「上御木」の略称であるという。同様に、大木が生い茂っていた三木村を「御木里」と称したのである。

 三木村には式内社「御木神社」があった。これは、貴船明神(中座)・白髮明神(左座)・松尾明神(右座)の三神が鎮座したため三貴神社とも称された。昔、江沼潟には大蛇がいたので「御木神社」を守護神としたと伝えられている。ともあれ、古くは三木郷の総社であり、現在よりも浜辺にあった。その後、三木村の宮山と称する所へ、さらに梅山(堂の谷ともいう)の麓に移された。

 なお、『加賀志徴』には、古代「御木神社」の大鳥居趾「鳥居埼」が三木村の西三丁程に存したとあるが、定かではない。


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中浜村(なかはま)

松林(上木町)

 寛政六年(一七九四)の「御郡之覚抜書」には、「上木ノ中浜」とある。これは中浜村(浜中村ともいう)の初見である。

 天保八年(一八三七)の「江沼郡変地帳仕立」にも、中浜村の名称が見える。天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「中浜、上木出村、今廃村トナル」とある。つまり、中浜村は天保八年から同十五年までの間に廃村となったものだろう。『同書」によれば、中浜村は片野村と塩屋村のほぼ中間の浜辺に位置していた。ただ、同村に石高「一石二斗九升二合」が存したことは注目される。

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、「昔は此の辺檜林なりしとぞ。其の後も此の谷は木々生ひ茂り、村の小童などは化物出づるとてゆかざりしと云ふ」とある。また、『江沼郡誌』にも、「元禄享保前ありては、現在砂丘地の一部に、若干の耕地を存したと云ふ」とある。すなわち、享保以前の上木浜には、樹木が生育して若干の耕地も存したのである。その後、飛砂によって砂丘地と化し、中浜村も廃村となったものだろう。

 最後に、上木町の古老で中浜村の名称を知る者がいなかったことを報告しておきたい。


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犬沢村(いんのさわ)

犬沢町

 寛政六年(一七九四)の「御郡之覚抜書」には、「下福田ノ山岸、印竿」とある。これは犬沢の初見である。天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』にも、「下福田、八十七軒、内九軒犬沢、三十八軒山岸」とあり、まだ犬沢・山岸両村は下福田の出村であったことがわかる。

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、犬沢村の由来について次の二説を載せている。その一は、昔下福田村領に大きな沢が存し、そこに狼が住みついていたので「犬の沢」と称した。その二は、右の沢を田地に開くとき、境界に竹を立てたので「印竿(いんのさお)」と称した。ただ、古老で右の両説を語るものはなく、皆次のように話す。すなわち、昔金沢より犬を連れた節がこの地に移り住んだことに始まるという。今もその武士を埋めた場所を「金沢松」と称している。

 『江沼志稿』には、下福田村の小物成として藩内唯一の栗役を記している。これについても、『茇憩紀聞』には次の二説を記している。その一は、昔犬沢の浪人が公用で栗を貯えていたが、その後公用を辞退したため栗役を課した。その二は、同村の人が片野池向かいの栗林より栗を獲り商売したため栗役を課した。前説は信憑性に欠けるものであろう。

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極楽寺村(ごくらくじ)

畑 町

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、「村の西堤の上に坊ヶ谷と云ふあり。此の所に昔極楽寺と云ふ寺あり。山口玄蕃菩提所と云ふ」とある。

 白山五院の一つ「極楽寺」は、その後戦乱によって焼失した。珠に、加賀国を中心とした一向一揆は、極楽寺をはじめ真言宗の古刹を悉く焼失させた。慶長三年(一五九八)に大聖寺城主となった山口宗永は、極楽寺を再興するとともにそれらを自らの菩提寺としたのである。また、『同書』には、「昔極楽寺と山岸の間に極楽寺の出村あり。此の村を畑村と云ふ」とある。右からするとその後極楽寺村は廃村となり、その出村の畑村だけが残ってきたことになる。ともあれ、藩政末期の『加賀志徴』には、「唯いまにしても村名を、十に八・九は畑と呼びて、極楽寺にては通ぜざるが如し。婦女子に極楽寺村の事を問へば、畑の事かと云ふ」とあり、当時まだ畑村を極楽寺村と呼ぶこともあったようである。古老(畑村)は「畑村を極楽寺村と呼んだのは昭和十年頃までであった」という。

 以上から次のような憶測が成り立つ。すなわち、極楽寺村は古く畑村と称していたが、慶長五年に山口氏が滅亡した後、その寺号が村名として残ったものだろう。

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熊坂村(くまさか)

熊坂町

 『吾妻鏡』の寿永三年(一一八四)四月六日の条には、「加賀熊坂庄者、八條院領」とある。

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「熊坂、七村ノ惣名也」として、花房・花房出村・吉岡・庄司谷・畑岡・北原・石坂の七ヶ村を載せている。もっとも、七ヶ村の村御印は一紙であった。ただ、『同書』に「此外石坂持高無之。今廃」とある如く、石坂村はすでに廃村となっていた。しかし、藩政末期の『加賀志徴』には、再び石坂村を記している。その後、『江沼郡誌』では、「字熊坂は更に北原・畑岡・庄司谷・吉岡・花房・出村の六部落」と、石坂村の名が見えなくなっている。石坂村は、平安時代の大盗賊として、承安年中(一一七一〜七四)源義経に討たれたとされる熊坂長範の生誕地といわれている。なお、天保八年(一八三七)の「江沼郡変地帳仕立」によると、七ヶ村中、庄司谷・畑岡・吉岡・花房・花房出村の五ヶ村は、熊坂村の出村であった。

 熊坂庄の成立とともに庄官の必要をみるが、七ヶ村の中心に位置した庄司谷村には庄官が置かれていた、そのため現在でも「庄司」の名称が残っている。

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細坪村(ほそつぼ)

細坪町

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「昔故有テ一村越後エ罷越、新田ヲ開。其時明觀・胴丸二人ハ残、此二軒ノ屋敷跡于今アリ。胴丸屋敷ニ井戸有。今モ其水ヲ呑。其二軒ノ外ハ、他村ヨリ寄合、御高ヲ耕作スト」とある。

 すなわち、藩政後期に明觀・胴丸(神社番)の子孫が生存していた。また、両人の屋敷跡といわれる場所が神社下に残っていた(現在も残っている)。つまり、現在の細坪町は、越後へ移住した後、他村よりの寄合高によって藩政期に成立したものである。越後への移住についても古老(細坪町)は「越後とは新潟県新発田市のことであり、溝口秀勝の新発田転封に際して細坪・平床両村の百姓を連行し、開墾に当てさせた」と説明する。

 慶長二年(一五九七)越後の春日山に転封された。この時、溝口秀勝も同国新発田に移されたが、江沼郡の地侍をはじめ多くの百姓を連れて行ったといわれる。つまり、細坪村の人々が新発田へ連行されたのは明らかである。が、彼等が再びこの古里の地に戻った記録は何一つない。

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曽宇村(そう)

曽宇町

 藩政初期の「土田文書」には、「一、曽宇山に是跡、間歩(まぶ)付候所有之候。其脇に赤くさり銀気強きくさりつる有之候(略)其方彼山へ被山、一・二はいほど取出し、間吹申付、彌銀代強候はば、其鉉を下へ山を引」とある。右は、藩祖利治が藩士土田清右衛門にあてた手紙である。すなわち、利治は領内に金銀を求めて鉱山の開発に努めた結果、九谷・熊坂に金山を、右の如く、曽宇に銀山を発見したのである。また、後藤才次郎をして九谷に採鉱させたのも利治であった。右について古老(曽宇町)は「それは銀山でなく、銅山である。町から三キロ程入った山中に『金山(かなやま)』という所があり、いまも二、三の穴が残っている。鉱石は、村近くに『新高』という所で精錬された。その場書は、最近まで赤い水が流れていて、草木がほとんど生えなかった。子どもの頃、そこえ『光る石』(鉱石)を拾いに行った」と説明する。つまり、鉱山開発時には銀も採鉱されたが、やがて銅のみを採鉱するようになったものと考える。

 なお、藩政後期の『茇憩紀聞』には、村の奥に牛ヶ鼻坂といふ所あり、方石産す」とある。残念ながら、右について知る古老はいなかった。

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直下村(そそり)

上宮寺(直下町)

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、「曽宇、雨池といふ所あり、松山なり。昔白雨の為に植松被付といひ伝ふ」とある。

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』・藩政末期の『加賀志徴』でも、雨池は曽宇村領にあったと記している。ただ、曽宇町の古老はそれを知らないのである。そこで、直下町の古老に尋ねてみると、「其山は直下の山である。いまは田になっているが、昔は松山であった。郡奉行が『この山はそそりのか』と尋ねたので、村人は『そうや』と答えた。そのため役人は曽宇村領のものと受け取ったらしい」と返事があった。このような勘違いもあったかも知れないが、雨池が村境にあったためであろう。従って、雨池は直下村領に位置していたことがわかる。

 天保九年(一八三八)の「松木預け覚帳」には、「丸山・ショワ谷。荒谷の松木伐り盗み候ニ付、一村寄合の上相談仕候処、此山の木を御上へ預け置くこそ宜しからん」とある。雨池は右の丸山に位置する松山(藩有林)であったが、その後ショワ谷・荒谷とともに入会山(民有林)になっていた。つまり、松山の指定編入は永久的なものではなく、変動が見られたのである。


日谷村(ひのや)

日谷平野(日谷町)

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』によると、藩政後期まで曽宇村・日谷村・直下村の三ヶ村を「三谷(みたに)」と称した。その後、百々村・細坪村がそれぞれ編入され、旧三谷村が成立した。

 まず、曽宇村は、古く惣・曽の一字を当てているが、これは山の片側に寄りそう村という意味らしい。また、直下村は、曽々利・裾織・すそ折などとも記され、深山にそそり立つという意味らしい。この地名も深山に多く見られる。次いで、日谷村は、檜谷・日野谷・日屋などと用いられているが、古くは火矢と書いたものらしい。つまり、古代において火は烽(とぶひ)を表し、古くこの村には烽が置かれていたことを示している。日谷村は、もと直下村の一部であったが、のちに別府となった。従って、日谷町の神社はもと直下の里に置かれていたことがわかる。

 『北陸七国志』には、「惣・曽々利・裾織村に陣を取る」と天文元年(一五三二)に直下村が二ヶ所に分かれていたことを記す。これは明らかに誤謬である。藩政後期の『茇憩紀聞』に、一向一揆に際して直下村が一村越前に移住し、その後再び帰った為「越前言葉の風」が残ると記すことは理解できる。

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大豆田村(おおまめだ)

上河崎町

 藩政期に領内第一の清泉「御手洗」(殿様水とも称す)の名で聞こえた加茂村には、もう一つ名が知れたものがあった。それは「賀茂社」である。

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「倭文庄。加茂村辺。古城州賀茂社競馬。馬揃六番。加賀倭文牽上馬出例以。今此称名。加賀倭文圧鳴也。此馬出所。必賀茂明神社有ト云。今加茂村鎮守。則賀茂明神也」とある。すなわち、古く山城国賀茂社の「馬揃」(毎年五月五日に行われる競馬会神事)は、「五番金津庄」・六番倭文庄」などとして馬を献上させていた。この馬を出す所には賀茂社の分霊が置かれていたのである。山城国賀茂社の社領は加賀国にも存し、河北郡金津庄・江沼郡倭文庄がそれに当ったものだろう。因に、賀茂社領は鎌倉期に荘園六十余個所(二十三ヵ国)を数え、伊勢・石清水両社領とともに「三社領」といわれた。

 なお、藩政末期の『加賀志徴』では、「其なごりに月津の脇に賀茂と云ふ小社あり」と、倭文庄が月津町(小松市)・動橋町辺にいちしていたと記すが、確かではない。

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加茂村(か も)

 藩政期に領内第一の清泉「御手洗(みたらし)」(殿様水とも称す)の名で聞こえた加茂村には、もう一つ名が知れたものがあった。それは「賀茂社」である。

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「倭文(シトリ)庄。加茂村辺。古城州賀茂社競馬。馬揃六番。加賀倭文牽上馬出例以。今此称名。加賀倭文圧鳴也。此馬出所。必賀茂明神社有ト云。今加茂村鎮守。則賀茂明神也」とある。

 すなわち、古く山城国賀茂社の「馬揃」(毎年五月五日に行われる競馬会神事)は、「五番金津庄」・六番倭文庄」などとして馬を献上させていた。この馬を出す所には賀茂社の分霊が置かれていたのである。山城国賀茂社の社領は加賀国にも存し、河北郡金津庄・江沼郡倭文庄がそれに当ったものだろう。因に、賀茂社領は鎌倉期に荘園六十余個所(二十三ヵ国)を数え、伊勢・石清水両社領とともに「三社領」といわれた。

 なお、藩政末期の『加賀志徴』では、「其なごりに月津の脇に賀茂と云ふ小社あり」と、倭文庄が月津町(小松市)・動橋町辺にいちしていたと記すが、確かではない。

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山代村(やましろ)

 大聖寺藩には、御林(松山)とともに御藪も置かれた。山代御藪は、質量ともに藩内一であった。

 藩政後期の『藩国見聞録』によると、弘化元年(一八四四)に山代御藪は、「見聞寺御藪」(南北百七十三間、東西七十二間、西市御藪とも称す)・「山王御藪」(南北八十四間、東西七十六間)・「立石御藪」(南北百五十間、東西三十二間)・「(塩焇御藪)(南北百十四間、東西百十七間)・「龍宮院御藪」(南北百十七間、東西三十六間、歩卒二人が見張りした)の五藪であった。右御藪の前三藪を「上藪」、跡二藪を「下藪」と称した。そのため、いまでも山代を上下に二分するという。これらは、寛文五年(一六六五)に大機公(二代藩主利明)の殖産興業の一環として植栽したものである。

 右のように、御藪には厳重な取り締まりがなされた。それは次の覚書によってもわかる。

 一、山代村御藪近辺之村々男女子供ニ至迄、農業ニ罷出候節、竹并竹子一本ニ而茂盗取不申様、常々厳敷可申渡候、若相背申者有之候者、急度曲事被仰付可被下候御事(略)

   寛政十一年未正月

山代新村(やましろしん

 明治期山代村には「武田三昧(さんまい)」と称する場所が存した。これは、嘉永七年(一八五三)の『山代志』の著者武田友海で知られる武田一族の墓地といわれる。

 『山代志』によれば、武田友海は山代神明宮の宮司で、自らを「河地守源友海と称していた。残念ながら、友海に関する記録は右が全てである。従って、武田一族の系譜も明らかにし得ない。ただ、『同書』には、次のような記事を載せる。すなわち、永禄二年(一五九三)に作見城主藤丸が神明宮を再興したこと、また寛永六年(一六二九)に三代加賀藩主利常が市の瀬神社を置き、市ノ瀬用水周辺の二十余カ村を神戸としたこと、ついで文政六年(一八二三)に山代新村(現在の場所)に遷宮したことなどを明記している。右から推測するに、武田氏が神明宮の宮司として当地に赴任したのは、文政六年であったと考えられる。

 周知の如く、友海の孫にあたる武雄氏は、明治四十三年・同四十四年に山代村村長を務めた。昭和初期に山代中学校の校地内より数個の骨壺(こつつぼ)が出土した。その場所が「武田三昧」であるといわれる。

初坂村(はつさか)

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、「小川をへだて初坂とて家二軒あり。

二ツ屋の出村なり。昔は飴を煮て売りたり、初坂飴是なり。小松中納言様(三代加賀藩主利常)より御免許ありて煮たる由。今飴商売致しても願ふに不及と云ひ伝ふ」とある。

 右について初坂てる子さん(二ツ屋町)は「初坂村の二軒とは、森村の神社の前にあった。市ノ瀬用水を挟んで森村側に一軒(森町在住の初坂家)と二ツ屋村側に一軒(二ツ屋在住の初坂家)が存した。前者は昭和初期に森村へ、後者は藩政末期に二ツ屋村へそれぞれ移った。飴製造について、前者は十年ほど前に、後者は藩政末期にそれぞれ廃止した。前者の飴製造機は今も残っている」という。ただ、天保八年(一八三七)の「江沼郡変地帳仕立」には、「一、退転、但三十ヶ年計以前、二ツ屋之枝郷初坂村」とあって、既に初坂村は退転(廃村)していたことがわかる。

 右の説明によって、初坂村の大要が推測されるが、「初坂飴」(加賀藩の許可)と「吸坂飴」(大聖寺藩の許可)との関係は明らかにし得ない。これは推測であるが、前者の製造方法が後者に伝承されたと考えられる。

勅使村(ちょくし)

 法皇山や勅使願成寺で歴史に著名な勅使村の由来については、いまのところ次の二説が存する。

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には次のような一説を載せている。寛和年中(九八五〜八六)に花山法皇が那谷観音に御幸された時、一条天皇の勅使河原右京がしばらく逗留したので、勅使村と称するようになった。『江沼郡史』によると、勅使村と河原村との中間に勅使河原右京の墳墓が存しそこに五、六個の石が積み上げられていたが、いまは明らかでない。

 いま一説は、『大日本地名辞典』などに明記するもので、全国的にも数多く見られる勅旨田の設置に基づく村名由来である。両説については、いままで後説によるのが一般的であった。しかし、ここでは、勅使村と河原村との中間に居住した勅使河原右京に因んだ村名としたい。つまり、勅使河原右京の名前を割いて勅使村と河原村とを置いたものだろう。

 勅使小学校の校地内に「勅使館跡」がある。これは平安時代から南北朝時代に至る地方豪族の住居跡といわれる。なお、これには、勅使河原右京のそれと一致させる説もある。

横北村(よこぎた)

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、「此の谷大土迄を横北の郷と云し由」とある。

 『蔭凉軒日録』の寛正二年(一四六一)九月二十六日の条には、「林光院領加賀国横北郷、為本斎藤御園致訴訟之由有り之」と、横北郷(横北庄ともいう)の地頭として斎藤御園がいたことを記す。また、『永享元年日記』の明応八年(一四九九)十二月二十五日の条にも、「林光院領加賀国横北庄」とある。毎年、横北郷から領主林光院(金閣寺の末寺)に綿・和紙・柿などの特産物が納められたことであろう。十六世紀初め、地元百姓(一向宗徒)と手を組んだ安楽光院(石川郡大慶寺の末寺)が、横北郷を支配するようになる。江沼郡の庄・郷は、既に平安末より見られる。菅波郷・山代郷・南郷などがそれである。室町時代の成立と考えられる横北郷・忌浪郷は遅いものであった。

 右の如く、横北村は、中世東谷において中心的存在であった。このことは、『茇憩紀聞』に「此の村の宮大社にて、此の谷の惣社なり由」とあることによっても理解できる。その後、右社は、藩政後期に「白山社」となり、明治二十五年に「白山神社」となった。

柏野村(かしわの)

 柏野町には、白山五院の一つ「柏野寺」(源内の白山神社か)の他に、歴史的に知られるものが二つある。

 一つは同町の北に存する「大内屋敷」である。藩政末期の『加賀志徴』によると、長享元年(一四八七)加賀国には、大内修理亮・大内左京亮卿・大内助四郎盛弘・大内四郎弘成等が居住していた。大内氏の加賀国への土着は、明徳の乱(一三九一)に際し、三代将軍義満に援した大内弘正(義弘の次男)が子の藤丸に石川郡中興庄を与えたことに始まる。つまり、柏野村に大内氏が居住したことが考えられる。西谷の大内村にも、大内氏が居住したといわれる。

 二つは「柏野古城」である。『朝倉始末記』には、「同十五日、加州ノ城柏野・松山城ノ公方衆放火アリ」とある。すなわち、一向一揆の加越両国和睦に際し、永禄十年(一五六七)十二月に柏野城・松山城は、十五代将軍義昭らの命によって焼失されたのである。 なお、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』によると、柏野村の城を「道善城」と称し、また村入口には大門が設けられていた。

 つまり、柏野城と道善城は同一のものであった。

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山本村(やまもと)

 正保三年(一六四六)の「高辻帳」には、清水・桑原・松山の角村と並んで「山本村」の名称が見える。また、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』にも、当時山本村に三軒の家があったと記す。次いで、藩政末期の『加賀志徴』でも、同村の名が確認出来る。

 『江沼郡誌』には、旧勅使村として勅使・宇谷・栄谷・松山・清水・河原・二子塚・上野・森・山本・津波倉の十一ヶ村を載せている。ただ、それには「山本及び津波倉は現在人家なし」の付記がある。右からすると、山本村は明治二十年以降に廃村となったことになる。『同書』では、明治十八年八月に断絶し、同二十二年に廃村となったとしている。右について西田友治氏(栄谷町)は、「山本村には九十年程前まで三軒の家があったが、その後一軒(西田家)は栄谷村へ、残る二軒は松山村へ移ってしまった」という。この事情については、『宗山遺稿』に「山本は小村珠に貧にして常に捨高多く、その上惣平一人を残して挙村奔亡致せしに依り、全領を惣平に与え」とあることによっても理解できる。

 なお、山本村の場所は松山城跡の山下と伝えられている。その移転の理由は明らかでない。

片野村(かたの)

 藩政期の片野村は、鴨大池と長者屋敷の名でかなり知られていた。いま一つ有名なものがあった。それは「土殷孽(といんけつ)」である。

 藩政末期の『加賀志徴』によると、片野村には土殷孽と称する鉱物が産した。また、それは、千野山(江州)・松ケ谷(伊賀)・泉涌寺山(城州)・潮沢村(信州)等九ケ所のものと並び称される上等品(柔らかく・砕き易いもの)であった。

『国訳本草綱目』を見ると、土殷孽は別名を土乳・集解などとも称し、土穴に生ずる鍾乳状の石灰華で、色は脂のように白いとある。これは、鍾乳と同じく、陰痒・陰蝕・発熱に効いた。これは普通焼いて使用した。ともあれ、土殷孽は本草としたかなり貴重なものであった。『国訳本草綱目』に「生干土穴」とあり、それらしき場所へ足を運んだが、残念ながらその場所を発見することは出来なかった。

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、「昔は今の砂山の一円檜木材なりしに、或時木と木とすれ合い出火して、不残焼失すと云ふ。今長者屋敷の辺に、焼木と覚しき木根あり」とある。すなわち、藩政中期に片野浜の檜木材が焼失し、飛砂のために砂丘となったのである。右からすると、土殷孽の土穴を捜すことは困難であろう。


宮 村(み や)

宮町辺神社(宮町)

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』によると、「辺(いそべ)」(神体は大木の二股に挟まれた巨石)の名で聞こえた宮村は、極楽寺村・深田村の出村であった。寛政六年(一七九四)の「御群之覚抜書」には、「深田ノ宮村」とある。

 藩政末期の『加賀志徴』によると、古代部神社の神霊は、天神川(田尻川)の中流、天神松が生立する辺より上げられ、田尻村領の二ノ谷(押谷・御師谷とも称す)の大立石の下に鎮座された。当時、近傍の村人に崇拝されたが、中世に社殿は隠滅してしまった。宝永期(一七〇四〜一〇)に廃址を崇拝するようになり、宝暦期(一七五一〜六三)に至って極楽寺村の大宮三右衛門・東出市平・中島孫右衛門三人が神社横に出村して宮番に当った。これを宮村と称した。

 『延喜式』には「宮村部神社」とあり、古く宮村が存したことがわかる。これは憶測の或を出ないが、「社殿は隠滅」の頃、同村は何かの理由で廃村・移村したものと考える。従って、『延喜式』に記す宮村と宝暦期成立のそれとは、本質的に異なるものである。また、両村の位置についても、同一視するのは疑問である。

深田村(ふかだ)

鏡池(深田町)

藩政後期の『茇憩紀聞』には、「村の中に鏡が池と云ふあり。池中に鏡一面あり。指渡し三寸許にして柄なし。裏に鶴亀の模様あり。甚古鏡なり。此の鏡実盛池中へなげ込みしと云ひ伝ふ」とある。

 右の鏡は、寿永二年(一一八三)六月の篠原の戦いに際して斎藤実盛が白髪染めに使用したものといわれる。確かに、それは藤原時代以降の製作とする鑑定も出ているようだが、実盛のそれとするには無理があろう。今も深田町の中心地に滾々と湧き出す冷水池(広さ十二㎡)が存する。これを見ていると、何故か遥か鎌倉時代のことを考えてしまう。つまり、この時期に一般化した米作が旱魃によって遮断され、窮乏に喘ぐ農民の姿を思い浮かべてしまう。

 このことは、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』に「此池中に斎藤実盛所持の髪鏡と云ふ有り。旱魃の時土民此池の鏡を取出し、笠伏山の嶺に居して雨を乞ふ、必験有りと云ふ」とあることによってもわかる。鏡が池は、「雨乞いの池」として実盛伝説を結びつけることによって維持したものであろう。

 毎年九月十五日・十六日に行われる深田祭のとき、池と鏡をきれいにしている。

小塩村(おしお)

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には「往昔鍛冶山ト云ヨリ、夫婦岩迄人家連綿シテ、義経奥州エ落シ時ノ往還ハ、夫婦岩ノ辺也ト」とある。すなわち、小塩村はもと大村であったが、年々の砂浜浸食によって小村と化したのである。

 小塩村ではあ、古くから漁猟を業としていたが、製塩の盛んだった越前に近いこともあって製塩が行われた。藩政後期の『秘要雑集』には、「小塩村に、昔は御収納蔵ありしを、寛文九年七月其蔵を四丁町へ御引也」とある。藩政前期小塩村には塩蔵(潮津村にもあった)が置かれていたが、製塩も盛んであったことだろう。藩政後期にそれは行われなくなった。その原因は『江沼志稿』に「往昔ヨリ漁猟ヲ産業トス。天明八年風波ノ難ニ人多溺死ス。依って漁猟ヲ止」とある如く、天明の災難と深い関係があった。つまり、小塩村では、右の災難によって漁業・製塩を中止したのである。『同書』には、隣村の塩浜村でも「中古迄塩釜有。天明ノ頃廃」であったと記す。

 なお、『同書』には、当時領内で塩を生産していたところとして篠原新村・伊切村・浜佐美村の三カ村を載せている。


平床村(ひらどこ)

 『江沼郡誌』によると、明治二十二年に上福田・下福田・敷地等九字をもって福田村を組織したが、大正九年に敷地から平床が独立して十字となった。

 寛政六年(一七九四)の「御郡之覚抜書」には、「敷地の平床」とある。これは平床村の初見である。天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「平床、敷地の出村、文政□年村御印渡」とある。すなわち、敷地村の出村であった平床村は、文政年間(一八一八〜二九)に行政上の独立村となったことがわかる。しかし、明治期に平床村は、再び行政上敷地村に含まれた。『江沼志稿』に「平床高畑、二十石一斗」と記すように、平床村は地形上から畑作中心であった。鹿野虎作(小塩辻村の十村)が記した『宗山遺稿』によると、祖父小四郎は藩政後期に敷地村領の平床に溜池を築き、田地十町を開いて塔尾村忠左衛門等七戸の百姓を移住させた。文政年間に平床村が独立したのは、右の新田開発と関係があるように思う。

 なお、天保年間に戸数二・三(九人高持)だった平床村は大正九年に戸数九(人口四十六人)となった。現在では戸数三十を超えている。

大菅波村(おおすがなみ)

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、「此の村往古は山の根にあり。そのころは大村といふ。山口玄蕃の時今の地へ所替したる由。其時分は今の田地の所大なる沼にて、菅など生茂り居たるに依て、村替の時大菅波と名付くとぞ」とある。すなわち、大菅波村はもとある山麓に位置する大村であったが、慶長期山口玄蕃の命によっていまの場所に移された。その頃、同村の一帯には菅が群生する沼地が広がっていたので「大菅波」と改名したのである。また、小菅波についても、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』に「村名大菅波に同じ。菅の大小に依って名とす」と記す。

 『江沼志稿』によると、両村では元禄以前に陶器が焼かれ、それを「菅沼焼」と称していた。また、『茇憩紀聞』によれば、作見村でも同様に陶器が焼かれ、それを「作見焼」と称していた。ただ、これには「一説に作見焼と云ふも実は菅波焼なり」との考えもあった。

 ともあれ、菅波村・作見村で焼物が焼かれたことは、いまも残る「甕割坂」の地名などによってわかる。しかし、その焼物が陶器であったかは、今のところ明らかではない。

作見村(さくみ)

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、「村より左の山を城跡と云ふ。作見藤丸砦とも云ふ」とある。

 『朝倉始末記』の弘治元年(一五五五)の頃には、「南郷・津葉・千足、三城ヲ堅テ(略)千足城ハ十三村ノ大将大坂・潟津ノ大助・振橋ノ帯刀己下参千余騎」とある。朝倉宗滴の加賀出陣に際し、一揆勢はこれを南郷城(黒瀬掃部丞・藤丸新介らの三千余騎)・津葉城(錦城山の地)・千足城で総力をあげて迎え撃った。朝倉勢はこれを一斉に攻めたため、一揆勢は城をすてて退いた。文化期の「江沼郡古戦場図」には、「作見藤丸ノ居所也ト村方ニ云伝フ、七国志等ニ千束ノ堡ト云ハ此山ト見ユ」と付記している。『茇憩紀聞』と同様に、千足城主を藤丸新介と伝えている。

 右については、「山代神明記」に「永禄二年(一五五九)八月十六日、作見城主藤丸勧請社造営」とあって、この頃藤丸新介が千足城に居住していたことがわかる。古老(作見町)も「千足城は藤丸新介である。その城は大谷という所にあった」という。

 なお、城山と通称される山近くには、物見山・陣取山・千足谷などの地名が残っている。


山田村(やまだ)

 光教寺(「御文」に記す光闡坊)で知られた山田村は、藩政期二村から成っていた。

 天保八年(一八三七)の「江沼郡変地帳仕立」には、「東山田村、山田村之枝郷」とある。これは東山田村の初見である。また、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「東西ノ二村有、四十四雑家共」とある。すなわち、東山田村は山田村の出村であったこと、併せて山田村を西山田村と称したことがわかる。『同書』によると、西山田村には八幡社が鎮座していた。現在は両町とも八幡神社が置かれている。

 寛政六年(一七四九)の「御郡之覚抜書」には、東山田村の名称がまだ見えない。つまり、東山田村は、寛政期から天保期にかけて成立したことが考えられる。その後の情勢について古老(山田町)は「明治五年からは両村で一人の区長を置いた。戦時中、東山田村と西山田村でそれぞれ区長を置くようになり、現在に至っている」という。

 なお、昭和二十五年頃に引き揚げ社を対象とした北山田村を置いた。とうじ、十戸から成っていたという。


富塚村(とみづか)

 古墳で知られる富塚村は、古く富墓庄(柴山庄とも称す)の範疇にあった。

藩政末期の『加賀志徴』には、「おこりの神森、富塚の少し南にあり、邑人おこりの神とて、洗米と花とを捧げて瘧を落す。祭神も詳かならず。もとより社もなく、榎の古木あるのみ。神体は此榎の本に埋めありといひ伝へたり。森の大きさ五・六間四方也。昔は五百歩四方皆宮地にて有りたるよしひ伝へたり」

とある。すなわち、富塚村の南側に「瘧の神森」が存し、村人たちは米を花を捧げて「おこり」を落していた。右について古老(富塚町)は「以前南方の町はずれに竹薮があり、その中に二本の杉木に護られて「『瘧の神様』が安置されていた。それは百五十キロ程の石であるが、現在白山神社の境内に移されている」という。

 五十年程前、「おこり」は一般的な病気であり、右の神社が置かれたことは充分に考えられる。栄谷町の白山神社の境内に存する「石船」、小松市月津町の白山神社(住吉・日吉・沢山の三社を合社する)境内に建つ「沢山神社」など、右の「瘧の神様」にあたるといわれる。


宮地村(みやじ)

  ここはどこじゃ   定者の釜じゃ

   またうそこいた   てんてんてこ

 右は、通称「定者釜」(道場釜とも称す)の名で知られた宮地村の子守唄である。

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、「畑中に高さ六、七尺許に七、八尺四方にして平なる石あり、塔の台と云ふ。此の所即ち寺屋敷跡なり。今に此の辺古瓦多くあり」とある。また、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』であh、「是九重塔ノ台座ト云。此所ニ真言宗寺屋敷ノ由」と記す。いまでも当地水田の中に巨石が一つ存するが、これは右の大塔心礎石であろう。「法隆寺式」の伽藍配置を有する寺院が存したという説や真言宗の古刹が存したとする説があるが、明らかにされていない。

 『江沼志稿』によると、宮地村には出村が存した。右について古老(宮地町)は「それは宮地と篠原の村境の『寺の前』にあった。多いときは十八軒を数えたが、その後三度の移転を経てふたたび本村と合併した」という

星戸村(ほしと)

 寛政六年(一七九四)の「御郡之覚抜書」には、「西島ノ星戸」とある。是は星戸村(西島新村)の初見である。

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「星戸、西島ノ出村也、十一軒家数、四十三人高持」とある。また『江沼郡志』にも、「字西島の一部に小字星戸といふ処あり。今個数五・六戸の一部落をなす」とある。大正三年に建てられた「星戸神社記念」(西島町)によると、星戸村は明治十八年に西島町に合併されている。もっとも、石川県によると正式告論は同三十九年のことであるが、前記「今個数は…」は明らかに誤謬といわざるを得ない。ただ、右の五・六戸については「星戸神社記念」に記された五軒のことだと考えられ、近村ではこの五戸を星戸村と称していたことがわかる。

 『江沼郡志』には、この地は往時平家壇の浦に敗れしとき、残兵密に逃れて来り往せしに起きるといふ」とある。すなわち、星戸村を平家の落人によって成った村としている。「星戸神社記念」では明暦元年(一六五五)に越前より逃れてきた人々が住んだ村と記している。時代的なものから前説は信憑性にかける。

津波倉村(つばくら)

 縄文遺跡や古代兵庫(武器を納める倉)で知られる津波倉町は、いま行政上の独立町とはいえない。

 正保三年(一六四六)の「高辻帳」には、津波倉村の石高「百二十八石八斗七升」とある。また、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「府城より二里、六軒家数、二十二人高持」とある。ついで『江沼志稿』には、明治二十七年に津波倉村が廃村となったとある。右について古老(庄町)は「当時、津波倉村には四軒の家が存したが、高台に位置していたため市ノ瀬陽水の水を得ることが困難で、一軒一軒と移住して行った。明治三十六年頃に最後の一軒北村家(北海道小樽市在住)が八日市村へ移住した。この時、津波倉村の土地は、庄村と桑原村へ売り払われた。二子塚村にそれを売らなかったのは、長い間両村で水争いをしてきたためである」と説明する。

 桑原町の桑原神社境内に建てられた「石碑」には、明治七年の大早魃を契機として、同二十六年五月に津波倉村の田地「七町二反三畝八歩」を桑原村家売り払ったと記している。つまり、明治二十六年より同三十六年頃に廃村となったものだろう。

八日市村(ようかいち)

 八日市町には「都戻り」と称する場所が存し、そこに石地蔵一体が安置されている。

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、「往還に地蔵あり、此の所を都戻りと云ふ。西行法師西住法師と行脚の折から、九谷辺に暫足を止む。其の後都へ戻らんと両僧此の所迄出づ。西住は九谷辺の地優れ、他に又あらじと九谷へ戻り、今の西住村に閑居すと(略)西行は西住に別れて都に戻りし所とて、此の所を都戻りと云ふ」とある。すなわち、『山家集』の著者で知られる西行と弟子西住は、北国行脚の折(一一七七年頃)、九谷村まで足をのばしそこで数日を過ごした。その後、両僧は都へ戻ろうと八日市村まで来たが、西住は深山幽谷の景色が忘れられず、ふたたび九谷に戻りその近くに閑居した。西住と別れた西行は一人都へ戻っていくが、この両僧の別れた所を「都戻り」と称したのである。

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、八日市村から作見村へ向かう街道に「都戻橋」という小さな石橋があったと記す。現在の八日市橋近くに存したのであろう。

 なお、西住が居住した西住村は、昭和二十九年に廃村となっている。

庄 村(しょう)

 『日本紀略』には「割越前国江沼加賀二郡。為加賀国(略)加賀国江沼郡管郷十三。驛四。割五郷二驛。更建一郡。號能美郡」とある。弘仁十四年(八二三)二月に加賀国が越前国より独立し、六月に加賀郡の南半分が石川郡、江沼郡の北半分が能美郡となり、新しい国府は能美郡中央の梯川に臨む台地におかれた。右の八郷とは、長江郷(永井町周辺)・忌波郷(弓波町周辺)・山背郷(山代町周辺)・菅波郷(大小菅波町周辺)・八田郷(矢田町周辺)・額田郷(分校町周辺)竹原郷(小松市滝ガ原周辺)・三枝郷(南郷町周辺か)等といわれる。なお、これには、郡家郷(庄町周辺か)を加えて九郷とすることもある。郡府の設置場所について、藩政末期の『加賀志徴』には、「中にも此の庄村は動橋の近邑にて、隣領の津波倉村は上代の兵庫の遺址、また七日市・八日市とて隣邑なるも、いにしえ郡家たる時市を建てたる遺名ならん。又近邑なる富塚村の墳墓も、郡領などの古墳なるか。かたがた拠あれば、江沼の郡府は此地なるべし」とある。つまり、古代江沼郡における郡府の所在を庄町周辺に求めているが、当たらずといえでも遠からずであろう。


動橋村(いぶりばし)

 藩政後期の『越登賀三州志』によると、北国街道の宿場で知られる動橋村は、古くは振橋・揺橋・震橋・不忍橋等と実に様々な字が当てられていた。

 『朝倉始末記』によると、天文二十一年(一五五二)朝倉宗滴の加賀攻撃に際し、一揆大将の振橋帯刀は千足城(作見村)に陣を置いたが、城は落され、振橋に逃げ帰った。すなわち、振橋帯刀が村名となったとする一説がある。これについては、帯刀が振橋に居住していたためとする説も成り立つだろう。また、『大路水経』によれば、同村を流れる動橋川には古く一本橋が掛けられていて、通行人が渡る毎に大きく揺れ動くため、「イブリ橋」と称するようになった。つまり、これが村名になったとする一説もある。なお、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、右の橋が石橋となったためとある。ともあれ、古老の伝承は後説に集中している。

 「廻国雑記」の文明十八年(一四八六)の頃には、「振橋」の字が見える。「動橋」の字を当てるようになったのはいつ頃か明らかでない。いまのところ、寛永十六年(一六三九)の「宿遣人足伝馬之御印」の中に「動橋」と見えるのが初見である。

河尻村(かわじり)

 『江沼郡志』には、明治九年に毛合村と河尻村が合併して合河村が成立したとある。

 合河村はスタートから躓きを見せた。例えば、寺院・三昧・神社等の一本化問題がそれぞれあった。神社については、毛合村に毛合白山神社が、河尻村に蔵宮白山神社が置かれている。従って、春祭・秋祭なども別々に行われている。寺院については、毛合村が東本願寺派に、河尻村が西本願寺派に所属している。

 寛政六年(一七九四)の「御郡之覚抜書」には、「毛谷ノ川尻」とある。これは河尻村の初見である。当時、河尻村は毛谷村の出村であったことがわかる。ともあれ、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「毛谷、二十二軒家数。河尻、二十三軒家数」とあって、河尻村の戸数は本村である毛谷村のそれを上回っていた。ただ、『同書』に「両村名異ニシテ村御印一也。故合書之」とある如く、河尻村は行政上の独立村となり得なかった。右については、安政期(一八五四〜五九)に独立村となったとする一説がある。

 なお、いまでも合河町では、区長と相役を一年交代で努めている。

院内村(いんない)

 正保三年(一六四六)の「高辻帳」によると、分校村は既に大分校村と小分校村の二村に分かれ、共に行政上の独立村となっていた。

 『我が分校を探る』には、戦国期に分校村が東西に分かれたと記す。また、藩政末期の『加賀志徴』では、大分校・小分校の両村に「院内村」を加えた三ヵ村が分校であるとしている。藩政後期の『茇憩紀聞』には、「寺屋敷跡所々にあり。石などの残りある所もあり。また坊屋敷と云ふ処あり、坊の跡なるべし、或時此処にて農人石火鉢の如くなるもの掘出す。うちに護摩修する具あり」とある。右から次のような憶測が成り立つ。大分校村・小分校村近くには古く寺院が存した。その後、その寺領内には一村が置かれ、それを両村の人々は「院内村」と呼んだのである。天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「院内廃村、分校領ニ在」とあって、院内村は既に廃村となっていたことがわかる。その成立期となると、少なくとも藩政前期まで遡らなければならないだろう。現在、国道八号線近くに「イニヤ谷」という所があるが、院内村跡と考えられる。

 なお、分校町の白山・分校・菅原の三社中、菅原神社は院内村に置かれていたものといわれる。


潮津村(うしおづ)

 式内社「潮津神社」と古代「潮津駅」で知られる潮津村には、いま一つ「八塩湊」と称する泊りが存した。

 藩政後期の『茇憩紀聞』には、「此の領のかみでと云ふ所湖の辺平山なり。此の処を城跡と云ふ。馬出し域は河道の跡ありといへでも定かならず。昔此の処をやしわの湊とてえ、舟入りしと云ひ伝ふ。今土地の様子を考ヘ見るに、海へ続く縁なし。湖の入口にて舟入し故湊の名あるか。一説に手取川此の領へ流れ、篠原より海へ落ちたりとも云ふ」とある。すなわち、潮津村の「かみで」という平山(城跡ともいう)を昔から「やしわの湊」図称していたのである。また、『同書』には、篠原村の篠原神社を「やしはの宮」と称したと記している。つまり、古代篠原村は潮津村の範疇にあり、西海より篠原を経て潮津へと舟が入って来たことがわかる。藩政末期の『加賀志徴』によれば、「八塩湊」とは海塩のさし込む湊という意味らしい。これについて古老(潮津町)は「昔の川は源平町と石川療養所の間を流れていた」という。『茇憩紀聞』に記す如く、手取川が篠原村・野田村辺を流れていたのかもしれない。ともあれ、潮津村一帯には潟が広がっていた。


篠原村(しのはら)

 源平の古戦場で歴史に著名な篠原村は、式内社「篠原神社」が置かれる古い村である。

 寛政六年(一七九四)の「御郡之覚抜書」・藩政後期の『茇憩紀聞』・天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』などには、篠原村を全て「笹原村」と記してある。寛政六年以前の資料では篠原村と記してある。右については、『江沼志稿』に「笹原へ越高••••••」と記す如く、塩浜村・野田村等の他村によって記されたものである。つまり、「笹原村」の名称は他村の人のよみが記したもので、篠原村の人が記したものではなかった。『江沼郡誌』には、明治九年の大区制改正に際し、大区を五小区に分けたが、此の時第十三区の小五区に「笹原村・笹原新村••••••」とあって、その後昭和二十六年に現在の篠原村と改名するまで行政上の正式名称となっていたことがわかる。ただ、古老も指摘するように、藩政期以来「笹原」を「シノハラ」と発音していたことは注目される。

 なお、「笹原」と明記したことを、明治初期に登記官が誤記したためとする一説がある。これは、藩政期に笹原村と記していることからも賛同し難いものである。


日天村(にてん)

 山中節の「送りましょうか送られましょうか せめて日天の橋までも」の名文句で知られる日天茶屋村は、寛政六年(一七四九)の「御郡之覚抜書」によれば、中田村の出村であった。これは日天村(二天村とも記す)の初見である。

 藩政後期の『三州奇談』には、当時山中温泉の名が遠国にまで知られたことを記している。また。『山中町史』では、慶安期より藩政末まで山中村の旅館数は五十軒程で、ほとんど変化しなかったと記している。すなわち、日天茶屋村は、右温泉の盛大進行中に置かれたと考えられる。川方氏(中田町)が「戦前まで存した茶屋の建物からすると、少なくとも二百五十年以前のものであった」と述べるように、その設置は藩政中期まで遡るものであろう。ともあれ、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、日天村に二軒の茶屋が存したと記している。

 なお、『同書』によると、当時「茶屋役」が課せられていたのは、中田村と小菅波村だけであった。つまり、日天茶屋と天日茶屋はかなり繁盛していたのである。日天茶屋の名は、慶長期に因んで付けられたものだろう。


土谷村(つちだに)

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「土谷、府城ヨリ二里二十八丁、上原の出村也」とある。

 正保三年(一六四六)の「高辻帳」には、上原村・塚谷村などとともに土谷村(高百二十二石七升)の名称が見える。土谷村は、古くから行政上の独立村であったことがわかる。しかし、『江沼郡志』では、土谷村の名称を見ることができない。現在の上上原町がそれに当たるとする説もあるが、藩政後期の『奥山遊覧記』には、「村中右に方円寺有、蓮如上人旧跡、寺は上原領也、上原村は右手山上に有」とあって、当時土谷村は上原村の下に位置していたことがわかる。すなわち、現在の上原町には土谷村が存し、また上上原町には上原村が存していたのである。明治初期に土谷村は、行政上の問題から上原村に合併されたものだろう。

 天保六年の「寺院由緒書」よると、円法寺(上原町)は、文明年間(一四六九〜八六)蓮如に帰依した土谷新五郎が上原村領に建立したものである。明治十一年の「寺院明細帳」では、同寺の創立は文亀二年(一五〇二)としている。「寺院明細帳」には、「永禄年中(一五五八〜六九)土谷村ゟ上原へ移り」とあり、この頃土谷村が成立したものであろう。


菅谷村(すがたに)

 藩政後期の『三州奇談』には、菅谷村に関して興味深い二話を載せている。その一つを次ぎに紹介しよう。

 話は宝暦十三年(一七六三)に遡る。菅谷村平四郎は、橋立村より妻を迎え、二人の間に男子二人が生まれ、毎日仲良く暮らしていた。三月のある夜、妻は突如として狂いだし、寝ている夫の太股に噛付いた。その口は大きく裂け、長い舌で口のまわりについた血をねぶりまわす様子は、まるで鬼のようであった。また二歳の男子を裸にし、さかさに持って、その二本の足を一時に口に押し入れようとした。力持ちの者三人がようやく引き離したものの、明朝子どもを食わせと狂い回る妻に、大聖寺公場より足軽六人が派遣され、遂にお縄となったのである。

 右の話は実際にあったとは思われないがこのような話は現在でも各地に多く伝えられている。いわゆる殺生に関する山岳信仰であろう。『三州奇談』にも「平四郎親迄は殺生を多くせし家なれども」とあって、殺生の戒めを守らせようとしたことがわかる。ともあれ、当時の生活理念を知る上で興味深い話である。


大内村(おおうち)

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、大内村・風谷村に「七軒指除家」が存したとある。

 藩政後期の『奥山遊覧記』によると、大内村・風谷村には「御番所」が設けられていた。大内番所は越前竹田村へ、また風谷番所は越前市野村へと通ずる国境の接点として重視された。つまり、「七軒指除家」とは、番所のために使用されたことがわかる。大内番所で使用したという「突棒・刺股」は、いまも大内町出身者が大切に保管している。年代不詳(享保頃か)の「足軽中誓紙并上小仕」には、「一、大内村・風谷村山番人」とある。両番所には足軽の山番人を置き、国境の警備と山林の盗伐を監視させたのである。また、年代不詳(享保頃か)の「御役料并雑用方」によると、両番所の山番人二人には六十目(春暮半分宛)の役料が支給されている。因に、この時松奉行のそれは、銀三枚(春二枚暮一枚)であった。

 両番所は、一向一揆に際して設けられたといわれる。これは、その後何度となく大きな役割を果たした。例えば、元治元年(一八六四)の水戸浪士の侵入事件では、大内番所が防衛に大きな役割を果たしたのである。


坂下村(さかのしも)

 坂下町には、旧江沼郡内で唯一山間部に位置した式内社「日置神社」が置かれている。

 藩政後期の『奥山遊覧記』には、「左に風の宮と云地有、社はなし、大きなる樫木の森也、若人障る時は大風吹也。左に小屋二つあり、二百十日前には番人来り」とある。当時、日置神社は「風の宮」(砥倉宮とも称す)といって、坂下村と片谷村の村境に置かれていた。社は存じなかったが、近くに番小屋が置かれ、二百十日前に藩より番人が送られて来たのである。「江沼郡神社録」では、坂下村が片谷村の出村であったため、日置神社が裂かした村に置かれたと記す。右については、正保三年(一六四六)の「高辻帳」において既に坂下村の名を見ることができる。つまり、坂下村が出村であったとしても、それは中世以前にまで遡らなければならない。

 日置の名称は、古く尾張・伊勢・肥後・薩摩等において多く見られる。これらの多くは、その後郷名・庄名として残った。片谷についても、古く「日置谷」と記し、西谷の惣名であったと考える。つまり、日置神社は西谷における惣社として位置づけられてきたものである。


小杉村(こすぎ)

 勝光寺(打越町)の「宗門改帳」によると、寛永年間(一六二四〜四三)小杉村の戸数は十二であった。 

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「十五軒家数、七十五人高持」とある。すなわち、小杉村では寛永期から天保期の二百年間に僅か三戸しか増えていないのである。同様に、石高についても二百年間変化が見られなかった。これは、同村が山がちで新田開発が困難であったからである。右の他に、同村にはある弊習が長く残されていた。それは、水に濡らした半紙を生児の顔面に三日間あてておくのである。もちろん、そんなことをすれば、生児はすぐ死んでしまうことは明らかである。こうして同村では、生児の何人かを間引くことによって人数の増加を抑えたのである。つまり、小杉村では、間引きによってはじめて食糧と人口の均衡を保ち得たのである。

 右の弊習は間引きと称された。奈良時代から全国において見られた。百姓の生活は大変苦しく、多くの子どもを養育することが困難であったため、その後も長く続いた。ただ、何番目・男女の別などの間引きについては、各地でそれぞれ異なった。


真砂村(まなご)

 藩政期の山中名所の一つに「四滝」があった。鶴ヶ滝(荒谷村)・女郎ヶ滝(九谷村)・千束滝(九谷村)・簾滝(大内村)は、いずれもその景観たるや藩領内に聞こえた。また、真砂村の奥には、大宝寺川に沿って魚留・鉄砲・鍬柄・碁盤・布ヶ・二段・深踏・鍋の八滝があり、当時風流人をしてここまで足を運ばせたのである。

 藩政後期の『江沼郡雑記』によると、右八滝で最奥に位置した鍋滝辺にはタカラコ沢と称する沢が存し、この沢一帯に「タカラコ」という高山植物が自生していた。これは、高さ一・五メートル程で、桑葉に似た葉に黄色の花を咲かせたという。ただ、真砂・大日両村の人々は、この草を「トンガラコ」と呼び「タカラコ」の名を知る者は誰一人としていなかったと記している。右について古老(真砂町)は「現在、『トンガラコ』をもっぱら『大日草』と称している。これには大小二種類があり、大きい者は大日山の峰にしか自生しないが、小さいものは町近くにも自生している」という。

 なお、大日草が製塩の原料として一時注目され、大聖寺藩が秘密のうちにその実験を行った事実をいまは誰も知らない。


大日村(だいにち)

 天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』・『山中町史』には、真砂村を昔大日村と称したとある。

 藩政後期の『奥山遊覧記』によると、真砂村は口村と奥村から成り、前者を真砂村(口真砂)、後者を大日村(奥真砂)と称したのである。もっとも、前者と後者を総じて真砂村と呼んだこともあったようだが、両村はそれぞれ異なる村であった。因に、大日村は戸数五、真砂村は戸数二十七であった。また、両村の間は五百メートル程あった。『大聖寺藩史』によれば、大日村は流刑の地であり、享保二年(一七四九)に太田錦城の祖父橋本一閑が、また寛延二年(一七四九)に杉谷興兵衛が、次いで同年に山村兵助がそれぞれ遠流に処されている。つまり、大日村は大聖寺藩が流刑を目的として享保頃に設けた一村である。『同書』では、九谷村も流刑の地であったとしているが、定かではない。ともあれ、明治三年の大聖寺藩から明治政府(刑部部)への報告書では、同藩に古来流刑地がなかったとしている。

 現在、過疎化の波の中で最奥の真砂町は、空家がめだって多く、戸数も僅か五軒となっている。


大土村(おおづち)

 大日山麓に位置する大土町は、現在十戸(人口二十六人)の僻数の町である。大正五年の『北国新聞』では二十一戸(人口百四十一人)であり、また天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』では、三十二戸(百十一人高持)であった。正保三年の「高辻帳」には大土村の名称が見える。

 藩政後期の『茇憩紀聞』によると、村より奥山へ二里程(約八キロメートル)入った谷間に一の原・二の原・三の原と称する平地があり、金沢の商人由兵衛という者が藩へ運常銀を納め、大日山麓の檜木・杉木を数多く伐り出した。この時、一の原には木呂人足の小屋が多数建てられ、その人足数千人に及んだという。ただ、一の原を見るかぎり、人足数千は些か多過ぎるように思われる。せいぜい八百人程度の人足であっただろう。ともあれ、加賀藩治世の大土村は、かつてない賑わいをみせ、木偶芝居・茶屋など風俗営業も盛んであった。このため藩政末期までは、村の若者たちが毎年正月になると木偶人形を揃え芝居を行っていたといわれる。いまでは、右の木偶芝居については伝える古老もいなくなった。


四十九院村(しじゅうくいん)

 藩政後期の『三州奇談』には、蛇岩伝説で知られる四十九院村から多くの仏具が掘出された記載がある。つまり、古く同村には寺院が存したと考えられる。

 周知の如く、行基は、聖武天皇の尊信を得て生涯を社会事業に捧げ、寺院四十九・橋六・道一・池十五・堀四・溝七・樋三・船着場二・無料宿泊所九等を作った。神亀二年(七二五)七月行基は白山に参詣され、この地の同胞に教化を説いた。その後、多くの道場がこの地に建立されたが、その一つが四十九院にも置かれたといわれる。もっとも、右道場と前期の仏具とを結びつけることは早計であろう。しかし、四十九院村の名称が寺院に由来したことは明らかである。

 天保六年の「寺院由緒書」によると、仏願寺(四十九院町)は、文明三年(一四七一)に蓮如に帰依した専信坊が建立したものである。が、「同書」には、「四十九院越前之国豊原寺之末寺にて」ともあって、その創設は右を遥かに遡るものである。

『江沼郡誌』では、東谷奥村を総称して「四十九院谷」と称してとある。とまり、四十九院村は、古く当地域における政治・文化の中心地であった。





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