『 続 続 加賀江沼雑記 』

江沼地方史研究会会長 牧野隆信

山口君の『加賀・江沼雑記』が稿を重ね『続々加賀・江沼雑記』の出版を見るに至ったことに対し、衷心から敬意と賛辞をおくりたい。こうした種類の書物は三巻も続けることは至難であり、余程の粘り強い探究心を必要とする。本書をひもとく時、同じ村について一巻毎に新しい発見が見られる。細坪村から越後に移って行った年代や場所をハッキリさせたことや、上野村の高岡山の場所、七日市の作食蔵の場所等々本巻にも新しい歴史が豊富に加えられているが、これらは編者の、資料を調べ、現地を訪ね、帰ってまた史料にあたるという着実な研究のくりかえしの結果である。とかく初巻が充実していて、続、続々と低下を見る傾向の多い時代に、巻を重ねて充実する山口君の労苦の大成を期待し、郷土を愛する多くの方がたの御高覧を希望するものである。

昭和六十二年五月吉日


※ 本書は昭和六十二年発刊当時の内容となり、現在と違う場合があります。

「加賀江沼雑記」は全三集となっています。こちらから閲覧できます。


『加賀・江沼雑記』

『続 加賀・江沼雑記』


       目次

瀬越村(せごえ)    永井村(ながい)

奥谷村(おくのや)  三木村(みき)

畑 村(はた)           岡 村(おか)

大聖寺村(だいしょうじ)熊坂村(くまさか)

細坪村(ほそつぼ)  曽宇村(そう)

直下村(そそり)    日谷村(ひのや)

南郷村(なんごう)  中代村(なかだい)

加茂村(かも)      山代村(やましろ)

上野村(うわの)    二ツ屋村(ふたつや)

水田丸村(みずたまる)横北村(よこぎた)

桑原村(くわばら)   清水村(しみず)

片野村(かたの)   千崎村(ちざき)

敷地村(しきじ)   大菅波村(おおすがなみ)

作見村(さくみ)   尾中村(おちゅう)

富塚村(とみづか)   西島村(にしじま)

八日市村(ようかいち)七日市村(なぬかいち)

庄 村(しょう)     梶井村(かじい)

潮津村(うしおづ)   篠原村(しのはら)

篠原新村(しのはらしん)柴山村(しばやま)

新保村(しんぼ)    打越村(うちこし)

上原村(うわばら)  下谷村(しもたに)

大内村(おおうち)  枯淵村(かれぶち)

坂下村(さかのしも)  生水村(しょうず)

上新保村(かみしんぼ) 大土村(おおづち)

今立村(いまだち)  滝 村(たき)


地 図


『加賀・江沼雑記』へ

『続加賀・江沼雑記』へ




瀬越村(せごえ)

雁山(瀬越町)

瀬越山の西方、塩屋村に通ずる松林の中に、特に老松が群生する小高い山がある。これは「雁山」(鷹山ともいう)と称され、古く大聖寺藩の狩猟地であった。

元禄頃より行われたといわれる片野村の坂網猟は有名である。が、瀬越村のそれについては殆ど知られていない。『江沼郡誌』には、「藩主の狩猟地にして、秋暮江沼潟にある鴨・雁の、蛇島方面より来りて、ここを越えんとする時、高く坂網を挙げてこれを捕へ、藩主自ら出猟する時は、和兵衛の家その休憩所となせり」とある。すなわち、雁山とは、江沼潟から飛翔する雁・鴨などを捕獲したことから呼ばれた名称である。片野村の鴨溜池と同様のものであったが、飛翔する鳥の数は鴨溜池より少なかった。右の和兵衛とは、瀬越町の吉野和弘家にあたる。

雁山は、藩政後期まで砂丘地で あった。その後、藩によって黒松 が植林され、現在のような松林が 出来た。つまり、瀬越村の坂網猟 は、片野村のそれに比べて遥かに 遅く藩政末期より始まった。

今でも晩秋になると、雁山の下 を流れる大聖寺川には、鴨・雁などの浮遊するのを見ることができる。

目次へ戻る

 

永井村(ながい)

箱多満里神社(永井町)

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「三味線清泉、永井領ノ西ニ在。水ノ流ル音三味線ヲ弾音ニ似」とある。

故老に清水のことを尋ねると「はっきりは分からんが、清水はある」と前置きし、快くその場所へ案内してくれた。それは、永井町の西方にあるゴルフ場(通称新高山)の小さな谷間にあった。ゴルフ場ができる以前、この谷間には他が広がっていたという。今でも谷の奥深くにはそれらしき場所が残っているが、沼地のようになっていて、その周囲を像技と雑草が覆っている。その下をよく見ると、清水が湧き出ている。故老は「以前、清水は『やだん川』となって音をたてて流れたが、三味線を弾く音には聞こえなかった。ただ、どんな早魃にも水が涸れることがなかった。古くから、この川を吉崎村と永井村の境界としてきた」と話してくれた。

なおゴルフ場のクラブハウス(通称小森山)の下に位置する「松谷(まったん)」と称する谷間にも清水がある。今この谷間には小さなダムが二つ造られている。源泉の横には、昭和十五年頃に安置されたという高さ七十センチ程の地蔵があり、毎年八月二十四日には地蔵盆が行われている。

目次へ戻る


奥谷村(おくのや)

『江沼郡誌』には、「温泉跡、字奥谷の小字五地内に在りたりといふ。今も此の地を湯の谷と称し、字十一地内には薬師寺ありたりとて、同じく薬師の地名を残せり」とある。

奥谷町の北方を北陸自動車道が走っている。その下を通り抜けると向山(ゴルフ場の裏)につきあたり、そこに「湯谷(ゆわんだに)」と称する谷間がある。また、この谷間に対面する同町入口近くを「薬師」と称している。そこは二十本程の椎の古木が生い茂り、小さな社となっている。故老に尋ねると「昔、湯谷には温泉が湧き出ていた。が、その源泉を白鷺が山中温泉(山代温泉という故老もいる)にもっていったため、温泉は出なくなった。それでも、この谷間を流れる水は他に比べて温かいので、冬、野菜などを洗うのに用いている」と返答があった。ただ、薬師寺について語る故老はいなかった。つまり、古く奥谷の湯谷には温泉が湧き出ており、その後地震など地殻変動によって温泉が出なくなったのではないかと考える。

なお、『江沼郡誌』によれば、毫摂寺趾(大聖寺)が同町にあったが、故老は「墨谷家の上に寺があった」という。

目次へ戻る


三木村(みき)

 藩政後期の『秘要雑集』には、天和二年(一六八二)に大坂より初めて龍骨車といふ物を取寄せられ、田へ水を懸る器也。右村の領へ初めて今井儀左衛門・東野瀬兵衛水を懸けに行くといへり」とある。

『江沼郡誌』では、大聖寺藩の龍骨車購入を天和三年と記している。それは代々十村役を務めた堀野新四郎(現在空地)の居住付近の田地で試用された。このため同地付近を「じゃぶじゃぶ」と称するようになったという説もある。しかし、この説については多くの故老が批判的である。彼等は古く江沼潟が同地付近まで広がっていたためと語る。ともあれ、最新の灌漑用具である龍骨車を比較的早い時期に大聖寺藩に導入したのは二代藩主利明であった。彼は市の瀬用水の補修、矢田野用水の開発、樫(大土村)・唐竹(山代村)の移植など農業振興に全力を注いだ。

龍骨車は、江戸時代の三大農具(備中鍬=工作用具、千歯こぎ=脱穀調整器、千石どおし=選別用具)に次ぐ農具である。同時代の灌漑用具の中では踏車とともに最もよく使用された。

なお、三木村に龍骨車が最初に導入されたことについては、同村が大聖寺藩の米作中心地であったためと考えられる。

目次へ戻る


畑 村(はた)

畑神社(畑町)

藩政後期の『茇憩紀聞』には、「昔極楽寺と山岸の間に極楽寺の出村あり、此の村を畑村と云ひし」とある。

畑村を極楽寺の出村とするのは『同書』が唯一である。『江沼志稿』や『加賀志徴』では「極楽寺村を畑村と云ふ」と記す。しかし、村高を記した「高辻長」には全て極楽寺村と明記している。藩政期畑村は極楽寺村に含まれていたものだろう。「畑」の名称が再び甦ったのは大聖寺町と合併した昭和十年であった。

昭和九年頃、南朝に味方した畑六郎左衛門時能を畑村の出身とし、畑神社建設の運動が起こり、建築が始まったが、太平洋戦争で中断した。この神社建設は所謂「南北朝正閏(せいじゅん)論」と深い関係があった。明治四十四年帝国議会で国定教科書が南朝・北朝対等に記述されていることが指摘され、右翼・野党の攻撃により政治問題化した。また、昭和六年満州事変が起こると、再び正閏論が高まり、南朝の忠臣顕彰と足利氏の逆賊への筆誅(ひっちゅう)が歴史研究の使命とされた。戦後、正閏論は全く影を潜めた。

右のように、畑神社建設の中止は戦後の正閏論衰退と大きく関わっていたのである。


目次へ戻る


岡 村(おか)

天明四年(一七八四)の『秘要雑集』によると、大聖寺藩祖利治(加賀三代藩主利常の三男)は、死後、岡村の宗英寺(二代藩主利明のとき、実性院と改称して今の地に移した)で荼毘(火葬)に付された。この時の灰などが「灰塚」として岡村に残っている。

利治は万治三年(一六六〇)四月二十一日に江戸で没した。四十三歳であった。『大聖寺藩史』には、「御遺骸大正寺岡村宗英寺へ被為入に付、久兵衛は直に全昌寺で切腹したのである。つまり、利春の遺骸は五月三日に火葬されたものだろう。

いま、岡村には灰塚と称する所が二つある。一つは右に記す利春の灰塚である。町外れの田の中に三メートル四方の崩れた石垣を残し、その中に七十年程たった松木が一本植えられている。二つは岡町の岡田家(もと宗英寺の境内と考える)の敷地内に存するもので、右同様崩れた石垣を残している。後者については推測の域を出ないが、利治が師と仰ぎ、金沢より招いて宗英寺の開山とした祇徹(ぎてつ)の灰塚と考えたい。

目次へ戻る


大聖寺町(だいしょうじ)

水守神社(法ケ坊町)

藩政後期の『秘要雑集』によると、寛文十年(一六七〇)まで罪人の斬殺は大聖寺川の「犀ヶ渕」と「釜ヶ渕」という所で行っていた。

藩祖利治の入封の頃、大聖寺川は、敷地橋より南に折れて耳聞山の小丘陵に沿って流れ、菅生川の水をあわせ、法華坊弁天より荒町・鍛冶町・山田町の後方まで来て大きく湾曲して福田橋にむかっていた。特に山田町の屋敷裏には「犀ヶ渕」といって深い危険な所があった。そのため増水すると、その渕が崖崩れをおこし、山田・鍛冶両町の家屋を倒壊させることにもなった。そこで寛文十三年二代利明のとき、両町の町人五人が「犀ヶ渕及び新川の御普請願い」を藩庁に出し、認められた。

右の「犀ヶ渕」の位置は、現在のマルエースーパーの辺といわれている。また、「釜ヶ渕」(茶釜ヶ渕とも称す)は、「西川之図」(加賀歴史民俗資料館蔵)によれば、錦城東小学校裏辺に位置する。

ともあれ、延宝五年(一六七七)に乞食を斬り殺した小者は、寄合所の庭で斬殺されている。前記の寛文十三年の犀ヶ渕工事の着工などからも、両渕での斬殺は寛文十年までであったと考える。

目次へ戻る


熊坂村(くまさか)

藩政後期の『江沼郡雑記』には、「熊坂領に土俗城跡と云ふ所四ヶ所あり」とある。

現在、四ヶ所の内で確認できるのものは二ヶ所である。一つは熊坂口城である。『右書』では、花房村の南の山(城山と通称する)に存し、一揆大将後藤才兵衛の居城であったと記す。藩政後期の『茇憩紀聞』によると、城山の平地は長さ二十三間、幅三間半程であり、昔その山の下には「朝日さし夕日かがやく木のもとに漆千斤朱千斤こがねの折敷七折敷子孫の為に埋置」と彫られた石橋(裏)が存した。

ただ、これには多くの異説がある。二つは熊坂奥城(黒谷城とも称す)である。前記『江沼郡雑記』によると、石坂村(明治期に廃村と化す)の山に存し、植松源太左衛門の城とされ、当時まだ溝・土居・堀などが残っていた。また、同村に存した白山社は城主植松氏の守護神とされ、当時その五輪が掘り出されている。残念なことは、両城についての伝承がほとんどないことである。

右の両城は中世全般を通して重要な役割を果たした。しかし、一向一揆の終焉とともに姿を消していったものであろう。

目次へ戻る


細坪村(ほそつぼ)

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「昔故有テ一村越後エ罷越、新田ヲ開、其時明観・胴丸二人ハ残、此二軒ノ屋敷跡干今アリ」とある。

右については、従来、慶長三年(一五九八)五月大聖寺城主溝口秀勝の越後新発田への転封に際し、明観と胴丸(神社等を守るため)を残して一村同地に引越ししたと伝承してきたものである。しかし、大正五年の『中蒲原郡志』には、「長潟村は寛永十七年加賀国細坪村の仁兵衛・清蔵等八名移住開発せり」とあり、新発田藩領の長潟村(現在新潟市)は寛永十七年(一六四〇)細坪村村民によって開発された。また、『清五郎のあゆみ』によると、長潟村の枝郷である清五郎村も、同年右の八人によって開発されたものである。

寛永十六年に大聖寺藩祖利治が大聖寺に入封するが、その翌年に新発田へ引越している。前記の「故有テ」はこのことと関係があるとも考えられる。いずれにしても、『新発田市史』には、慶長頃大聖寺から新発田藩領へ移住したと伝える村が多く記録されている。

つまり、秀勝の入封以来、長い年月を経て同地に移住したことがわかる。

目次へ戻る


曽宇村(そう)

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「油木、三谷ニ多、内ニ曽宇極テ多」とある。

油木とは油桐のことである。油桐の栽培は、藩政後期に若狭・丸岡等から苗木を輸入し、三谷(曽宇・直下・日谷)で始まった。曽宇村はその中心であった。明治期から大正期において、三谷は油桐栽培の先進地として県内に「江沼油桐」で知られた。

『石川県の林業』によると、大正三年に三谷の油桐生産は一万円以上(一軒平均三十俵)にも達し、米と同価値があった。また、収穫額についても三谷は江沼郡全体の七十五%以上を占めた。

油桐は、その種子から油(灯油)を採取するのを第一とした。苗木は植え付け後十年程で結実した。秋、山で拾い集めた種実を冬仕事に臼を用いてつき、皮をはがした実を乾かしたうえ、五斗俵詰として丸岡(製油所があった)に送った。

明治後期に石油ランプが出現し、一時その需要が激減したが、大正期に工業用(ペンキ・ワニス等の原料)として再び注目を浴びた。村設樹苗圃に油桐の苗木を生産するなど「大正期のピーク」を迎えた。しかし、太平洋戦争を機にその需要は全く衰退してしまった。

目次へ戻る


直下村(そそり)

上宮寺では、古くから毎年八月に「太子講」(太子像開扉会)という講を開いてきた。

藩政後期の『茇憩紀聞』には、「聖徳太子屋敷跡とて芭蕉多くあり、年毎に花咲く、太子の像あり、聖徳太子の作と云ふ」とある。右の芭蕉は今も同寺裏に自生しているが、戦前「太子講」を開くにあたって参詣人はそれを持ち帰り、厄払いに用いたという。また、太子像(桜木で彫られた三十センチ程の立像)も同寺に納められていて、天保十年(一八三九)の「聖徳太子御縁起」によれば、推古天皇六年(五九七)当地に巡遊した太子が貞則に自作像を与えたものである。一説には鎌倉時代の作ともいうが、定かでない。「太子講」は太子信仰の一つとして今も県内で多く行われている。小松市日末町の聖徳寺でも「太子講」を行っている。

『加賀志徴』には、「直下村は中世故有りて一村越前に移住す、其後また帰来る」と、同村が中世末の一向一揆に際して一村越前に移住したとある。前記『茇憩紀聞』に「東陽山といふ山の台に、寺屋敷あり」とあるから、もおと上宮寺は東陽山(不明)に在ったが、同村が越前より戻った後今の場所に移されたものと考える。

目次へ戻る


日谷村(ひのや)

白山神社(日谷町)

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「日谷・直下・曽宇三ヶ村三月三日暁ヨリ山入シ、其日薪材其人々ノアテ仕事ニシテ、材終レバ休足ス」とある。

日谷・直下・曽宇の三カ村では、三月三日の夜明けから山に入って、その日一日割り当てられた薪材を伐ったのである。いま、右の慣行を伝える故老はいない。これは各村の村持山(入会山)を一日だけ百姓に開放して薪材を伐らで、乾かせた後大聖寺城下に売り出ししたものだろう。この収入は村財源の一部として当てられたものとも考えられる。ともあれ、三カ村の山役が一律「四一三匁三分」の郡中四位であったことから、薪材の売り出しが盛んに行われていたことがわかる。現在、直下町には「捨て人夫」と称するものがある。これは町民の人夫賃を一日だけ小物成として町費の一部に当てるもので、前記の山入り慣行を受け継いだもののように思われる。故老によると、薪の「アテ仕事」は、一人につき一日百束と定められていた。

の、三町の山祭は毎年二回行われた。春は「種蒔き」、秋は「種拾い」と称した。両山祭ともこの日一日は入山を禁止していた。

目次へ戻る



南郷村(なんごう)

南郷町南方に八幡神社があるが、故老の多くはこれを「岡島八幡」と通称する。

藩政後期の『茇憩紀聞』によると、同社は初め応神天皇を祀る八幡社と称していた。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いに際し、二代加賀藩藩主利長は西軍に属した山口宗永を大聖寺城に攻めた。この時、同藩士岡島市生は先登して鐘ヶ丸で深手を負い南郷村まで退き没したので、村人が同社に合祀した。その後、大聖寺藩が設置されると、同藩主の祈願所の一つとなり、元文年中(一七三六〜四〇)に四代大聖寺藩主利章(としあきら)の後室保寿院は敷地天神の末社の八幡をここに移し、社殿を造営した。いま樹木鬱蒼とした境内には、「前田四代ノ後室保寿院ハ八幡神社守護ノ為ココニ并社ス」の立札とともに、嘉永七年(一八五四)八月に岡嶋家より寄進された手水鉢が置かれている。また、故老は「明治維新頃まで毎年岡島家より三人扶持を同社に給われた」ともいう。以上、「岡島八幡」と称した理由がわかる。

現在、同社には住吉社・足の宮・上の宮(白山社)・石の宮(菅原神社)・稲荷神社などが合祀されている。

目次へ戻る



中代村(なかだい)

『江沼郡誌』には、「八ツ塚、本村字中代の地内に在り。往古より八個の塚ありしを以て、世人称して八ツ塚と言へり」とある。

いま、中代町と保賀町の中間に位置する田の中に小さな社があり、この中に祠と参拝所が置かれている。これを「お稲荷さん」と称している。故老の多くは「昔、この辺には雑木林が広がっていて、多くの狐が棲息していた。時折、老狐が通行人を騙すので、村人が祠と朱塗りの鳥居を建てて狐の出没を防いだ。これを狐塚とも呼んだ。戦前まで小松をはじめ遠方から多くの参拝者が訪れた。多い日には、作見駅から行列をなして訪れるのを野良仕事をしながら見掛けた。戦後は少なくなったが、今でも若干の参詣人がある」という。今ひとりの故老は「昔、篠原の戦い(一一八三)で敗れた平家の残党八人が中代村の雑木林まで来て死んだ。そこで、村人たちは戦死者を弔って八つの塚を造った。戦前まで、高さ三十センチほどの墓石が三つ残っていた」という。

つまり、八つ塚とは、篠原の戦いに敗れた平家の戦死者を埋葬した八つの塚と考える。藩政末期頃、稲荷信仰と結びつけて八つ塚を維持しようとしたものであろう。


目次へ戻る


加茂村(かも)

加茂町の一区画に「北賀市(きたがいち)」と通称される場所がある。

明治二十四年(一八九一)五月、ロシア皇太子ニコライ二世は、シベリア鉄道起工式参列の途次、日本を訪れた。五月十一日、皇太子一行は、人力車四十両を連ねて大津にさしかかったとき、警固の巡査津田三蔵が皇太子に迫り、一太刀二太刀浴びせたのである。いわゆる大津事件(湖南事件)が起こった。この時、三蔵を取りおさえたのは、人力車夫向畑治三郎と北賀市市太郎の二人だったが、両人は日本政府から勲章・恩賜金・年金を、またロシアからも勲章・年金(終身年金で毎年千円が送られた。)をもらって成金になった。

北賀市は加茂村の出身で、現在の西村家の隣に住していたと伝えられるが、その後屈折した人生を送った。彼は車夫をやめて故郷に帰り田畑を買い、大地主になった。前記「北賀市」の場所もこの時の名残であろう。九年後、彼は江沼郡の郡会議員に当選し、幸福な人生を送っていた。しかし、明治三十七年の日露戦争の勃発によって彼の運命は一変した。ロシアから年金をもらう彼を人々は「露探」(スパイ)とよび、嫌がらせした。大正三年一月、波乱に富んだ一生を終えた。


目次へ戻る


山代村(やましろ)

薬王院五輪塔(山代温泉)

『江沼郡誌』には、「明覚は花山法皇随従の比丘にして、法皇が留めて薬王院を守らせ給ひし人なり。境内に明覚の墓あり」とある。

いま、薬王院(温泉寺)の石段を上り詰めた薬師山の高台に「薬王院五輪塔」と称するものがある。しかし、明覚の墓らしきものは一切見当たらない。『加賀名跡志』には、「明覚の供養塔であると伝える五輪塔が、温泉寺の後ろに続く薬師山に今もなお存在している。生国は明らかでないが、加賀に生まれたと見てよいだろう」と記している。すなわち『江沼郡誌』に記す明覚の墓とは、この五輪塔と間違えたものであろう。室町初期の創建といわれる五輪塔には、各輪に梵字が刻まれている。昭和三十二年に国の重要文化財の指定を受けた。現在、五輪塔は小屋の中に大切に収められている。

明覚は若くして比叡山に学んだ。三十八歳頃までは温泉寺の住職をしていたが、その後京都にでて悉曇(しったん)の研究者となった。彼は、京都の東光寺にて五十一歳で亡くなるまで、多くの悉曇書を著している。中でも、「悉曇要記」は平安期の最高峰といわれている。

なお、悉曇学とは、梵語(古代インド語)を研究する学問である。


目次へ戻る


上野村(うわの)

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「高岡山御陣所、府城ヨリ一里二十五丁、上野領ニアリ」とある。

秀吉の死後、家康と石田三成の対立が表面化した。慶長五年(一六〇〇)七月二十六日、加賀二代藩主利長は家康の旨を受けて三成を討つため金沢より兵を発した。当時の加賀・越前地方の状況は、小松の丹羽長重・大聖寺の山口宗永等をはじめ、いずれも石田方に与していた。利長は丹羽氏の守る小松攻略に手間取ることをおそれ、直ちに大聖寺の山口氏を攻め、これを陥れた。右は同年八月三日のことであるが、この戦いで利長が本陣を営んだ場所が高岡山なのである。

故老の一人は「山代中学校がある所を以前高岡山または油木山といった。これは二つの小高い丘から成り、平野に突き出ていたため大変見晴らしがよく、本陣を置くのに最適であっただろう。ここには同町の三昧もあったが、戦後間もなく田んぼに開いた」という。

ともあれ、利長は高岡山に本陣を置いたこの戦功によって、家康より、江沼郡七万石・能美郡八万石・松任四万石の領地を与えられた。つまりここに加越能三ヵ国に跨る加賀藩が成立したのである。


目次へ戻る


二ツ屋村(ふたつや)

『江沼郡誌』には、「同字神社に所蔵する太鼓は、胴の長さ二尺、直径一尺五寸にして、皮に梅鉢印の黒紋を附し、胴は朱塗りにて頗る美麗なるものなり。この太鼓は旧藩政時代領主より下賜せられたるものにして、胴中に数多の金貨ありしを、修繕の際盗まれ、其の後音響悪しきに至れり」とある。

二ツ屋町を訪ねると、太鼓は白山神社になく、修理のため浅野太鼓(松任市福留)に出されていた。浅野太鼓の主人の話では「太鼓は嘉永期〜安政期頃(一八四八〜五九)に作られたもので、太鼓職人の作品ではなく、鼓職人のそれであろう。いずれにしても、内部の彫り方は大変素晴らしく、いままでに二つしか見たことがない」ということだった。ただ、太鼓が誰によって、何故同村に下附されたか、という問題については故老は何も知らないようであった。一説では、能楽を大変好んだ十四代大聖寺藩主利鬯が同村に下附したとするが、明らかではない。

なお、『同書』によると、白山神社には、明治四十二年に八坂社が合祀された。八坂社とは二ツ屋の出村である初坂村(八坂村)の村名であったが、今右のことを知る故老は殆どいない。


目次へ戻る


水田丸村(みずたまる)

藩政後期の『茇憩紀聞』には、「この領埴山に紅・白の桜二もとあり、神木なり、此の木の花咲満つれば、豊作と昔より云ひ」とある。

水田丸町西方の「稲荷山」山腹に十メートルほど間隔をおいて二本の桜木がある。向かって右側の木は赤桜で、大人七、八人で抱えられる大木だったが、一昨年山林業者が誤って一メートル程の高さで切ってしまった。向かって左側の白桜も大人五、六人で抱えられる大木であるが、十年前雪のため倒れ、現在では花を咲かせなくなった。

『江沼郡誌』には、「大正初年頃までは神木として参詣するものも多かり」と記す。故老の一人は「神木には御稲荷様が入っていて、その枝一本でも折ると禍いが起こるという。神木の間に祠があった。明治期から大正期にかけ多くの参詣人がやってきた。中には人力車に乗って来る人のいた。参詣人は下の茶屋で油揚げを買って神木の供え物とした。願い事の多くは病気の治癒と結婚に関するものであった。神木の根元からは賽銭としての一文銭(藩政後期)が現在も出てくる」と、『江沼郡誌』同様に稲荷信仰の盛況を述べる。しかし、故老は「この盛況も仏教寺院からの稲荷信仰廃止要求によって振るわなくなった」と結ぶ。


目次へ戻る


横北村(よこぎた)

清 水(横北町)

『江沼郡誌』には、「横北の清水。弘法大師の杖の跡より湧きしなりといへり。如何なる旱天にも水涸れず、里人の飲用水に供せらる」とある。

いまも横北町の中心近くにこの清水があり、二体の地蔵が置かれている。これは横二・五メートル、縦一メートルの長方形(以前はこの二倍であった)で、滾々水を湧きだしている。その水の量には驚く。故老はいう。「ここの水はどこのよりうまい。市の水道が引かれるまでは、町中の家がこの水を飲んでいた」と。

弘法大師(空海)の伝説は、東谷地区を中心にいまも数多く残っている。例えば、大師が宿泊したとされる膳法家(柏野町)・蚊居らず屋敷(動橋町)・大師の教示によって湧き出したとされる横北清水(横北町)・弘法清水(庄町)等がある。これらの伝説は清水に関したものが多い。西谷地区の下谷・菅谷・片谷・生水等の町に見られる蓮如伝説が清水に関したものが多いのとよく似ている。

これらはいずれも既存の清水に弘法伝説・蓮如伝説がそれぞれ結びつき、水の大切さを教えたものと考える。


目次へ戻る


桑原村(くわばら)

藩政後期の『江沼郡雑記』には、庄村の東、桑原村と動橋村との分かれ道に近い田の中に「浄圓塚」と称する畑があったとある。

『右書』によれば、この塚は「上古阿部宗任(むねとう)の墓所」である。宗任は、流罪の後剃髪して浄圓と名を改め、桑原に住し、この地で没した。天保十一年(一八四〇)大聖寺藩の調査では、桑原・庄両村に阿部氏の子孫が居住していた。

周知のように、宗任は、陸奥の国の俘囚(帰化した蝦夷)の長安倍の子である。安倍氏一族は貢租・徭役を拒否するなど国司に従わなかったため、前九年の役(一〇五一〜六二)で陸奥守に任命された源頼義によって鎮圧された。康平七年(一〇六四)宗任は京都から伊予に流され、その後太宰府に移されたと伝えられる。従って、宗任が桑原村に住した記録もないまま、「浄圓塚」を彼の墓所とするには些か無理がある。おそらく、阿部某を安倍宗任に結びつけ、伝説化したものであろう。

ともあれ、桑原町の採石場近くの田の一角に苔むした石(高さ三十センチ程)が今も残っている。ただ、故老はこれを「浄圓塚」とは呼ばず、「石塚」とのみ呼んでいる。


目次へ戻る


清水村(しみず)

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「清水村清水、村ノ後井戸輪三ヶ所有、九夏三伏ニモ不涸、其下流田畝数百畝灌漑」と、当時清水村に三つの清水があったことを記している。

いま、右の清水で確認できるのは二つである。諏訪神社の左右にそれぞれ一つずつある。どちらも直径一メートル程のコンクリート枠を入れ、木の外蓋をしてあるが、水は余り湧き出ていない。左側の清水横には石の祠が置かれ、其中に二体の地蔵が安置されている。これは横北の二体の地蔵とよく似たものである。

故老の一人は「昔、弘法大師が北国へ巡錫(じゅんしゃく)された時、飲み水に困っている村人を見兼ねて、付近一帯を調べ、水の湧き出る所を錫杖で指し教えた。清水は京都清水寺のそれに繋がるものとして、それまでの村名『草岡』を清水村と改名した」という。これも横北・庄など多くの町で見られるように、弘法大師と結びつき伝説化したものである。

なお、明治十一年十月明治天皇は北陸の巡行に際し、動橋村で小休息された。このとき、多くの村の中から、清水村の清水が天皇に献上されたと伝えられるが、今は定かでない。


目次へ戻る


片野村(かたの)

片野海岸(片野町)

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「御茶屋跡、府城ヨリ一里、片野領ニアリ、海浜貝拾場ノ上也」とある。

右の貝拾場をいま単に「貝浜」と称している。この上にあったという御茶屋について知る故老はいないが、大聖寺藩主・藩士などが風景を楽しむ目的で置いたものであろう。いま、この近くには国民宿舎の片野荘が建てられている。

『江沼郡誌』では、「春夏の遊覧に適するを以て、古より世に知らる。背後の懸崖に小瀑あり、本郡三十六瀧の一として数えらる」とあって、古くからこの貝浜の景色が郡内に知られていたことがわかる。ただ、貝浜の背後にあったという滝については、その水量が少なくてとても滝(高さ十メートル程)と呼べるものではない。故老は「この水は砂山から湧き出す清水であり、夏でも涸れることがない。昔、水はもっともっと多かった」と話す。藩政後期の『茇憩紀聞』には、「昔は今の砂山の所一円檜木材なり」ろあるから、古くはここに川が流れていたとしても不思議ではない。

なお、『江沼志稿』によると、片野浜には四つの貝浜があった。しかし、二ヶ所については確認できない。


目次へ戻る


千崎村(ちざき)

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「千崎・大畠御印一ツ也」とある。

『右書』によると、千崎村には国玉社と八幡社が、大畠村には神明社が置かれていて、両村とも独立していたことがわかる。また、石高について見ても、千崎は三百六十七斗九合(二十五軒)、大畠は百七十石八斗二合(十二軒)であり、山本村(明治期に廃村となる)の七十三石一斗八合(三軒)に比べても遥かに多く、両村とも独立村としての条件を満たしている。しかし、その後の耕作調査でも「千崎・大畠、田畠地名両村ヨリ合テ出ス」と云う状況で、明治期に至るまで両村の村御印は一つであった。

右に関して、故老は「昭和三十六年に両村が合併して美岬町となったが、これは両村の山•田・畑がそれぞれ複雑に入り込んで、行政上困難であったため」という。藩政期についても同様のことがいえる。つまり、藩は年貢収納上両村を一村として扱ったものと考える。

なお、千崎町にある国定公園「尼御前岬」の名称は『江沼郡誌』によれば、以前「尼子瀬」と称していた。


目次へ戻る


敷地村(しきじ)

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「鷹狩場松木留山図」として延宝二年(一六七四)六月に敷地領・岡領•上福田領・山田領の一部を留山(立入禁止)としたと明記する。

右の場合、鷹の巣より六、七丁(約〇・八㎞)周囲を留山としている。もちろん、永久的に留山とするのではなく、鷹が巣を掛け、雛がかえるまでの一時的なものであった。このとき、地元民は雛の監視など種々の命を受けることが多かった。藩政後期の『茇憩紀聞』には、永井村徳兵衛が延宝四年十月四日付で鳥見役に任命されたとある。この頃、大聖寺藩では、多くの鷹狩場が設置されるとともに、「鷹匠制度」も整備されたことがわかる。

『江沼志稿』によると、敷地村と山田村との境を通る山田道(『まえぶら』と通称する)の入口の左側には「はり付け場」があった。西出利雄氏(敷地町)は「そこを今でもはり付け場と呼んでいるが、祖母からは『百万石のはり付け場』と聞いている」と話す。

つまり、はり付け場は加賀藩統治時代のもので、大聖寺藩創設以降は吸坂の地に移された。前者の場所では処刑されなかったともいわれる。


目次へ戻る


大菅波村(おおすがなみ)

子安神社(小菅波町)

『江沼郡誌』には、「古へ大菅波に赤子谷あり、巨石多くここに存せり。村民中児女多くして養育し難きものは、この谷に至りて之を捨てしを以て、彼等の手足が石面に印せるものあり。今小菅波の子安神社、山田の八幡神社等に其の石を存す」とある。

まず、子安神社(小菅波町)を訪ねてみると、社殿に向かって左に一つの巨石が置かれ、その横に「子安石」として、大菅並みの赤子谷(松が丘)より運び込んだと由緒を記した札が立てられていた。その境内を掃除していた故老は「以前は近郷近在から多くの女の人が参りに来たが、今では少なくなった」という。次いで、八幡神社(東山田町)を訪ねると、社殿の左右にそれらしき巨石が三つづつ置かれていた。故老に聞くと「どこから運んで来たものかは知らないが、昔から『泣き石』と称している」と答えが返ってきた。これらの石の中には、その凹みが子どもの手足に見えるのもあるが、もともと全くの自然の巨石であったと思われる。

赤子谷に子どもを捨てたことについては、藩政期まで行われていた「間引き」によっても、十分に考えられる。


目次へ戻る


作見村(さくみ)

藩政後期の『茇憩紀聞』には、「亀割坂の左に古松あり。藤丸の塚、又藤丸の家臣上羽次郎左衛門塚なりとも云ふ。歯のうづく時、此の松の根に大豆を埋み念ずれば、うづき止むといへり」とある。

いま、作見町西方の畑の中に大きな松木が一本あり、その根元に小さな墓石が置かれている。故老は「これを『箸塚』といい、墓石に自分が普段使用している箸と年の数だけ煎った大豆を供えると歯痛が治る」という。『江沼郡誌』では、「歯痛を治する妙を得たる揚次郎右衛門と云ふあり、死後此に堂を建て祀りしが、後火災に羅り、その宅地に植えたる松樹も今は迹なく、ただ徳川時代の末期に建てたる墓石あるのみ」と記す。すなわち、医者であった揚次郎右衛門の死後堂を建てて祀ってきたが、その後火災で堂が焼失してしまった。従って、現存する墓石は藩政末期に有志によって再建されたものである。これには「揚次郎右衛門」と刻まれている。また、彼の宅地にあった古松も大正期には存していなかった。故老によると、今の松木は、六十年程前に観音山により抜き取ってきた松苗を植えたものである。

ともあれ、「箸塚」は藩政末期に近郷にその名を知られていた。


目次へ戻る


尾中村(おちゅう)

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「府城ヨリ一里十五丁、五軒家数、二十一人高持、一人無高」とある。

尾中村の個数五は、「村御印」を与えられた約百四十カ村中、山本村(廃村)の個数三に次ぐ少ないものであった。大聖寺藩の村高を記した正保三年の「高辻長」には尾中村の名称が見える。いまのところ、これは同村の初見である。故老は「尾中は平家の落人が隠れ住んだ村である。もおと、村は下の谷間にあったが、藩政期にこの場所に移って来た。いまでも下の田を『下屋敷』と呼んでいる。片山津村は尾中の出村と聞いている」という。これについては、「〽️同じ山でも山田は都、尾中情けや谷で住む」と伝える歌もあり、古く谷間に村があったことがわかる。

ともあれ、正保三年・元禄十四年(一七〇一)・天保五年(一八三四)等の「高辻長」では石高に殆ど変化が見られないが、『江沼志稿』ではかなり石高が増えている。つまり、天保期に新田開発が行われ、しかもそれは谷間に限られていたことからすると、旧村の屋敷地をも新田として開発したものだろう。


目次へ戻る


富塚村(とみづか)

藩政後期の『茇憩紀聞』には、「此の村端に小山あり。或時土民土を取る事ありしに、石のからとに堀あたれり。掘出し見ればうちに具足・太刀のおれ朽たるあり」とある。

右の古墳は今も富塚町のほぼ中央に存在していて、『加賀志徴』などでは同町名もこれに由来したものと記している。この古墳がいかなる人のものかについては次の二説ある。一説は冨樫介の塚とするもので、故老の多くもこの説に従っている。その一人は「丸山(古墳)を掘ったとき、赤土に混じって黒土・粘土がたくさん出てきた。これは古く近くの田んぼの土を積み上げて古墳を作ったためで、今その穴は堤となっている」と話してくれた。いま一説は『江沼郡雑記』や『江沼郡誌』などに、室町時代弓波村に住した富森長者の大塚であるとする説である。

「菅家長者記」の文暦二年(一二三四)の文書に「加賀国富墓荘柴山荘」とあり、鎌倉時代に「富墓荘」の名称が見える。つまり、同町名が古墳に由来したものとすれば、先の両説では些か無理がある。ともあれ、同町には矢留塚・ジゴウ塚など多くの古代古墳が存したものであり、町名もこれに由来したものであろう。


目次へ戻る


西島村(にしじま)

『江沼郡誌』には、「綿花を栽培するに至りしは弘化年間なる(略)。珠に西島綿の如きは好評郡中に轟き、市価の高値なりしこと他に及ぶものなかりき」とある。

西島村は、藩政末期から明治前期まで江沼郡における綿花栽培の中心地であった。また、この綿花を「西島綿」と称していた。ただ、綿花栽培の始まりは弘化年間よりも少し早いようである。天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、既に同村をはじめ多くの村々で綿花栽培が行われていたと記している。が、同村の小物成にに綿花が見られないことから、まだ綿花の本格的な生産が行われていなかったことがわかる。当時、綿役が課せられたのは片山津村と山中村のみであった。故老にょると、同村の綿花栽培は明治二十年頃より次第に衰退し、同二十五年には全く消滅してしまった。その理由は、肥料と手数があまりにかかり過ぎるためという。

なお、『江沼志稿』によると、藩政期江沼郡では、白綿・赤綿・青綿の三種類が栽培された。白綿・赤綿が圧倒的に多かった。赤綿や青綿は、その幹の色から名付けられたようであり、「赤木」・「青木」などとも称した。


目次へ戻る


八日市村(ようかいち)

八日市町の西方を流れる八日市川は、他にあまり例を見ない川と言える。この川の源流がはっきりせず、平野に始まるからである。

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「弓波川、源流鹿ヶ端用水・市ノ瀬用水ノ滴所々ヨリ落合、大菅波・小菅波・作見・弓波領領ニ至、尾俣川ニ合」とある。すなわち、八日市川はまだ弓波川と称され、鹿ヶ端・市ノ瀬両用水の漏れ水を源流として流れた川で、また弓波村近くより尾俣川と合流して柴山潟へ注いでいたことがわかる。

『同書』によると、当時の尾俣川は、山代村領から西島・加茂両村を経て弓波村辺で弓波川と合流していた。右からすると、弓波川(現八日市川)の源流は、尾俣川のそれとされる池ノ尾(尾俣)と大谷(桂谷)にあたるだろう。ともあれ、藩政期の尾俣川は、下流の村々の田を潤す貴重な水であったが、その末流では極端に水量が少なくなった。これは田中に水が浸透したためといわれる。

なお『江沼郡誌』では、この川を安永二年(一七七三)頃毛合村肝煎の九右衛門が藩に願い出て開いた用水であったと記すが、明らかではない。明治前期より弓波川を八日市川と改称したものだろう。


目次へ戻る


七日市村(なんかいち)

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「七日市、此領ニ御蔵屋敷ト云地名有。昔作食蔵ノ跡也ト」とある。

いま、庄町近くの田の中に「御蔵前」と称する場所があるから、この後ろ辺に作食蔵があったものだろう。故老は「旧七日市小学校は作食蔵の跡地に建てられたもの」という。作食米とは加賀藩の百姓助成策の一つであったが、大聖寺藩でもこれを踏襲した。「勘定頭覚書」によると、大聖寺藩の作食米は、耕作のための食料を春二月下旬に貸し付けて、秋収穫時に回収したもので、五千八百石がこれにあてられた。この作食米を収納・保管するために領内の要所に作食蔵を置いた。例えば、七日市村・潮津村・山中村・串村等には作食蔵が置かれていたが、七日市村と潮津村のものは藩政中期に廃止されたようである。作食米の返済は米を持ってするのが原則であったが、他に大豆・小豆・小麦・蕎麦(二倍)・粟(三倍)などでもよかった。

「御算用場留書」によれば、元禄十四年(一七〇一)に箱宮村四郎兵衛・同村由兵衛・打越村小兵衛は、作食米の返済が遅れたため刎首(はねくび)を仰せつけられ、また彼等の妻子も領外へ追放されている。


目次へ戻る


庄 村(しょう)

江沼郡の中央にあって、古代の郡府が置かれた庄村は、藩政中期の「加賀絹」の発祥の地として知られる。

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「絹役運上毎歳出来高一疋ニ付三分宛」と、当時藩内の諸村で唯一の絹運上があげられ、庄村の絹織物は「市中第一」であったことがわかる。『江沼郡誌』や『加賀市史』によると、元禄年中(一六八八〜一七〇三)荻生村の娘が京都の西陣織を同村に伝え、「竹の浦絹」といわれた。この娘が庄村に嫁入りし、その技術を村の娘たちに伝えた。庄村の餅屋・京屋の二軒は、この事業に目をつけ、村の娘たちを集めて織らせ、「庄絹」と称して京都に出荷した。延享の頃(一七四四〜四七)、庄村の沢屋仁左衛門が大聖寺にこの業をひろめて以降、その中心が大聖寺に移った。つまり、明治期の「大聖寺絹」の発展を見るが、庄村のそれは衰退し、「田圃絹」と呼ばれるようになった。

当時の庄村の繁栄を物語るものが二つある。一つは町中を流れる市ノ瀬用水の岸が越前石で囲まれていることである。二つは村立てでありながら、本町・紺屋町・薬岳町・北ヶ市町・袋町などの町名を残していることである。

目次へ戻る



梶井村(かじい)

周知の如く、古代・中世において江沼郡(山代付近)は絹織物の産地であった。また、それは近世に入って庄・大聖寺が中心地となった。

『加賀志徴』には、「絹布重宝記」を引用して「諸国の絹布を悉く戴せたる中に、第一條に加賀絹を載せ、さて極上品を諸加賀といふ。諸に糸を調合(あわせ)て織るなり。惣てもろ加賀には、一疋づゝ金紙の札を付けたり。中にも梶井と云へる銘の絹あり。是に類する絹なし。殊に佳品なり。右の札に梶井と云判をすえたり」とある。すなわち、藩政後期に江沼郡の「加賀絹」が全国的に知られ、中でも梶井村から出る絹が最良であったことがわかる。残念ながら、いま右のことを伝える故老はいない。また、その史料もない。『江沼志稿』には、「絹、市中ニ多製。重目・中目・センジ(撰糸)・コブシ品類多。内職ニ製ヲ於京都ヲカミサマ絹ト云。庄・七日市ニ製ヲコズハ絹ト云」と記す。当時、郡内の多くの村々で種々の絹が製産されていたが、庄村・七日市村以外は殆ど内職に近い程度であった。つまり、梶井村についても内職の「カミサマ絹」を製産していたと考える。

なお、同町には、本願寺十三世宣如の「御文」が残されている。

目次へ戻る


潮津村(うしおづ)

潮津町の東方の「ホテルよしの」の横に、松木と雑木が生ずる小塚がある。これを「行基塚」と通称している。

『江沼郡誌』には、「往古行基菩薩行脚の際病歿せし所なりといへり。今を去る約七十年前、同地源左衛門の妻いとといふもの、塚の近傍に耕作中、黄金仏五個を発見し之を家に持ち帰り」とある。しかし、行基は東大寺大仏鋳造中の天平勝宝元年(七四九)二月二日菅原寺で入滅(八十二才)し、墓は竹林寺(奈良県)にあるので、右の塚を「行基塚」とすることには問題があろう。右の仏体一個は、その後古物商に売り出されていたというが、今は定かでない。右について、次のような異説を述べる故老もいる。「昔、定者が住んでいた場所であるが、村人で彼の姿を見たものはいなかった。また、その塚を掘るものは熱病に罹るといわれ、誰一人として掘るものはいなかった」と。

藩政後期の『茇憩紀聞』には、「昔は当村のうへに出村あり」とある。これについては、いまも潮津町の高台の畑に「出村」と称する広い場所がある。故老の一人は「昔、ここに十八戸の家があったが、再び本村に戻った」という。

目次へ戻る


篠原村(しのはら)

篠原町のほぼ中央に石の垣がめぐらされ、そこに小竹が植えられている。この竹が天然記念物として知られる金明竹である。

『江沼郡誌』には、明治九年苦竹藪より目廻七寸許なる幹表はれしが、皃女の為傷つけられて生育せず、よく十年再び一幹を生ぜしを以てこれを保護せしに、十一年亦一幹を生じたり」とある。すなわち、明治九年に河崎家所有の苦竹藪から一本の珍種が発生したのである。その幹・枝・根ともに光沢があり、薄い黄色で一節おきに緑色が現れている。また、葉にも白色の縦縞がある。明治十一年の明治天皇北陸巡幸では一幹を、大正八年の明治神宮献木では二幹をそれぞれ献上した。それ以外は分与することがなかったので、大正十四年頃には目廻二寸・三寸のものが二十三本に増えていた。昭和四十二年に花が咲き、一時絶滅の危機に瀕したこともあったが、いまでは同町の人々の努力によって百二十本ほどにまでなった。ただ、故老は「各家に植えられている金明竹は、九州や岐阜から入ってきたもので種類も異なる」と強調する。

なお、金明小学校の名称は、右の金明竹に因んで付けられたといわれる。

目次へ戻る


篠原新村(しのはらしん)

篠原村は、『平家物語』に記す「篠原宿」や「実盛塚」でゆうめいである。しかし、その出村である篠原新村は殆ど知られていない。

いまのところ、篠原新村の史料的所見は、寛政六年(一七九四)の「御郡之覚抜書」である。天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』によると、同村の戸数は十一(人口三十三)であった。また、『同書』には「塩釜・漁猟ヲ以産業トス」ともあって、同村が製塩と漁業中心の村であったことがわかる。併せて、小塩辻村より田を請作(うけさく)していたことも明記している。以上のことから、次のような推測が成り立つ。つまり、元禄期頃より夏季中心の製塩と上方漁法の導入によって、篠原村の高持ちの少ない家の二・三男が移り住み成立した村である。しかし同村は村御印を受けることなく、篠原村の村御印に「新村分」として含まれていた。

『江沼志稿』によると、当時、同村には一浜(塩釜十一)、伊切村には三浜(塩釜十七)、浜佐美村には二浜(塩釜十四)の塩田があり、この三ヶ村で藩の塩を全て生産していた。

なお、明治初期まで同村は、現在地より四百メートルも海寄りにあった。

目次へ戻る


柴山村(しばやま)

明治初期、柴山潟の雄大な景観に魅せられ、その周辺に閑居した大聖寺藩の先覚者がいる。儒者(折衷学派)の東方芝山である。

『江沼志稿』には、「始め芝山湖辺なる出張と称する三角州に、小さな邸宅を作りて住せしが、後天神山に移転して茶園を作り、其の中に邸宅を建てたりき」とある。すなわち、明治三年に芝山は柴山潟近くの天神山に閑居したのである。その移住理由は、以前藩主とともに狩りに来て柴山潟の美しさに魅せられたためといわれている。藩政後期の『茇憩紀聞』によると、古く天神山の西方には、近村十三ヶ村を領知した一揆大将柴山八郎左衛門の住居跡があった。ここに芝山が住んていたと考えられる。また、右の「出張(でんばり=いまは田)は芝山が住したのではなく、彼が庵を作り魚つりを楽しんだ場所と伝えられている。ともあれ、現在の天神山はその姿を大きく変え、当時の外観を留めていない。従って、芝山の住居跡も明らかにし得ないのである。ただ、柴山神社にの左横にその石碑が建てられている。

なお、芝山は、漢詩・書道・文人画にも優れていた。文久の改革(一八六二)では、北前船にならって藩も商売することなど藩に進言したことで知られる。

目次へ戻る


新保村(しんぼ)

藩政後期の『茇憩紀聞』には、「笹原へ越ゆる平山道、昔は往還なりといへるものありしと。何れは道跡と覚しく見ゆ」とある。

藩政期の北国道は越前金津宿より橘宿・大聖寺宿・動橋宿・月津宿を経て能美郡に通じていた。これ以前には「富樫街道」(浜坂道)があり、大聖寺より橋立・小塩・篠原を経て能美郡に至った。先の平山道はこの富樫街道のことで、とうじ、新保村はもっと海寄りにあったことがわかる。これについて故老は「天保二年(一八三一)同村に大火があり、村が全焼したため現在地に移住した。これ以前、村はもっと海側の低地にあった」という。併せて、同村の成立について「延徳元年(一四八九)に軽海中村(小松市)の十四戸が、長願寺の空仁坊に率いられて新保の地に住んだ」と説明する。ただ、『中海町史』に「新保村へ軽海の人々が移住して先住者と協力して、村建てを行なったものと考えられる」と記す如く、その成立は延徳元年を遡るであろう。一説には、平家の落人が隠れ住んだ村ともいわれる。

ともあれ、古代・中世と街道筋に位置したと考えられる新保村の所見は意外に遅く、慶長三年(一五八九)の「加賀国知行目録」まで待たねばならない。

目次へ戻る


打越村(うちこし)

藩政期、打越村で勝光寺とともに領内に名が通っていたものがある。それは、現在まで受け継がれている「打越茶」である。

『江沼郡誌』には、「最も早く製茶に改良を加へたるものは「打越部落にして、弘化元年宇治より月津地方に来れる吉平を聘して焙炉を使用し、宇治茶の製法に倣ふに至れり」とある。すなわち、打越村では早くから茶を栽培してきたが、弘化元年(一八四四)より宇治茶の製法を採用し、本格的にその生産に乗り出したのである。正徳二年(一七一一)の村御印には、まだ打越村に茶役が課せられていない。同様に、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』でも「山中茶」(宇治茶の製法)・「直下茶」(天乾法)・「河南茶」(同上)などの有名茶をはじめ、多くの村に茶役が課せられていたが、打越村にはそれが課せられた事実がない。当時、打越村ではまだ茶を販売していなかった。つまり、「打越茶」の名が領内に聞こえたのは藩政末期に至ってからのことである。

なお、『江沼志稿』によると、領内八十カ村余に茶役が課せられていたが、税が高かったのは串村(四十三匁)で、次いで山代村(二十九匁四分)であった。

目次へ戻る


上原村(うわばら)

藩政後期の『茇憩紀聞』には、「此の領内の往来に石橋あり、(略)石の裏を見ければ地蔵尊の像あり、大同二年と彫付あり」とある。

上上原の西北の道路横に昭和十年頃建てられたという祠がある。その中に高さ百三十五センチ・幅七十五センチほどの地蔵一体が安置されている。この砂岩の立像は朽ちて原形を留めず、大同二年(八〇七)の年号は解読できない。天保十三年(一八四二)の「地蔵尊由来」には次のように記す。昔、石橋は土谷(つちだに)村の道に掛かっていたが、上原村仁右衛門は「夢の御告」といって地蔵を自分の家近くに移した。その後、一村の信仰を得るようになり、霊験あらたかな地蔵となった。例えば、寛文中(一六六一〜七二)に同村四平は朝夕に地蔵を敬い奉っていたため、同村が火事で羅災した時も、彼の家だけは焼失しなかった。仁右衛門は竹木を結び、藁で屋根を葺いた簡単な草堂を作った。

『茇憩紀聞』には、「此の橋にて落馬するもの多くあり」とあり、当時土地に深く根を下ろして地蔵信仰が普及していたことがわかる。地蔵が大同二年のものとすれば、地蔵信仰の盛行(平安後期以降)以前の古いものとして注目される。

目次へ戻る


下谷村(しもたに)

藩政後期の『茇憩紀聞』には、下谷村に「蓮如上人とて清水あり」とある。

清水は今も同町の表家の横にある。そこに一体の地蔵とともに「蓮如上人せり清水」と記した石碑が建てられている。故老は、辺りに芹が多く自生して胃たためこの名が付いたという。また、蓮如上人の自筆とされる名号(南無阿弥陀仏)が同町会館に保管されている。毎年四月二十五日の「吉崎蓮如忌」に開帳される。昭和三年に明記された「虎斑(とらふ)ノ御名號縁起」によると、上人は、右書を藁筵(わらむしろ)の上で書いたため虎の斑に似た筵跡が付き「虎斑書」と自称した。

文明五年(一四七三)上人が当村に来たのは確かだろう。しかし、『加賀志徴』に同年の山中湯治に際して上人が清水を掘らせたとする説には賛同しない。つまり、『江沼志稿』や『旧村史』には、菅谷村の椿清水(現在特性寺の境内)はじめ、片谷・生水村などの清水に関する蓮如伝説を載せているが、これらはいずれも既存の清水に蓮如伝説が結びついたものと考える。

なお、西谷地区には、右以外にも大内・風谷・枯淵・九谷村など蓮如伝説が多く残っている。

目次へ戻る


大内村(おおうち)

「みす滝」で知られる大内町(現在なし)には、いまひとつの名の通ったものがある。「盤若岩」である。

『豊原寺史』や『鳴鹿村誌』には、それについて次のように明記して家雨。蓮如上人が越前に入った頃、同地には平泉寺と豊原寺の天台宗の二大寺が存した。ある日、上人は豊原寺を見参し、大内峠を越えようとしたとき、同寺の諱憚(きたん)に触れて悪僧に追いかけられた。その時、大内村の藤平の老婆(おさよ婆さん)が籾の中に上人を隠して難を逃れた。もっと安全な場所へということで、そこより二里程もある山奥の「盤若岩」という荊棘(けいきょく)の茂った同口に上人を案内し、毎日藤平家より食事を運んだ。上人は同村を去るに際し、自筆の六字名号(現存する)と寺の株を藤平に与えたといわれている。

我谷ダムから大内川に沿って約二キロメートル遡った左側に「みす滝」がある。そこから山をかなり登ったところに「盤若岩」(六×二十七メートルの洞窟)があり、その中に蓮如上人の石像が安置されている。今では訪れる人も殆どなく、道も荒れているが、その登山入口にはおさよ婆さんの墓が立っている。

目次へ戻る


枯淵村(かれぶち)

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、「富士写ヶ岳、枯淵・我谷・片谷・大内四領ニ跨、嶺ニ社有、不動・地蔵・釈迦ヲ安置ス」とある。

富士写ヶ岳は四ヶ村の村々入会山であった。しかし、『加賀志徴』では、宝暦十四年(一七六四)の調書に、富士写ヶ岳が枯淵村領にあったことを記す。当時、山頂の占有権争いは多く見られたが、宝暦以前に富士写ヶ岳の頂上は同村によって占有されていた。当然、先の三社も同村によって管理されていた。故老が「昔、富士写ヶ岳の頂上では雨乞いが行われていた。今では地蔵だけしかない。地租改正が行われたとき、この山の頂上付近は全て官山となった。それから麓までは四ヶ村の入会山として現在に至っている」というのももっともである。

富士写ヶ岳は古くから信仰の山であった。その最初は白山信仰としてであろう。いまもその山中には「若岳」・「仙人壁」・「伏拝山(ふしおがみやま)」などの白山信仰に関する地名が多く残っている。『豊原寺史』によると、養老元年(七一七)泰澄大師は、白山登拝後に伏拝山に本専寺を建立した。ここから東に位置した白山を拝したという。

目次へ戻る


坂下村(さかのしも)

江沼郡における式内社中、唯一山間部に鎮座された日置神社(坂下村)は「往古十ヶ村の惣社」であった。

いま一つ坂下村には重要な意味をもつものがあった。坂下峠である。この峠は、同村より上流の小杉・生水・九谷・真砂、さらには越前の村人にとって、大正期に山中・大聖寺に通ずる道路が完成するまで、大変重要なものであった。古くは泰澄大氏が白山信仰を開いたときの道、出羽三山の修験行者の行脚の道、親鸞上人の佐渡への下向の道、また藩政期以降は日用品の運搬の道、薪炭の出荷の道、水田用肥料の輸送の道等、歴史の香り溢れる道であった。なお、真砂・越前の人々は同村にて一泊した後、山中・大聖寺・四十九院方面に向かったといわれ、同村は宿場の役割も果たしていた。

天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、この峠を「真名越」とも称したとある。これは「真砂越」のことで、真砂村に通ずる道であったためにこのように呼んだものと考える。今もこの峠を越えて坂下町から四十九院町まで二時間程で辿り着くことができる。近くここに林道が完成する予定である。

目次へ戻る


生水村(しょうず)

藩政末期の『藩国見聞録』には、天保九年(一八三八)に郡奉行の奥廻りが行われた際、生水村を「此地石灰焼く、又当村竹細工多し」と報告している。

石灰について『江沼郡誌』には、「島田兼樵(菅谷村)また勧業に志し、天保六年肥料騰貴に際し、藩命を受け、石灰の原石を捜索し、之を九谷・生水・小杉の地に発見し、其の製法を遠く敦賀に学び帰りて大に石灰の製出に力めし」とある。石灰は馬の背に乗せ、坂下峠を越えて江沼郡各村に売り出された。いま、彼の功績は旧菅谷小学校の校庭に建つ石碑によって偲ばれる(もと景勝地、蟋蟀橋の岩頭に建っていた)。

竹細工について天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には、竹役を課した記録は見られない。つまり、竹細工による利益は殆どなく、冬季間の副業程度のものであったと考える。故老は「生水村には良質の真竹(苦竹)・山竹が多く生えていて、これを秋に切りおっておき、冬仕事として籠・そうけを作った。ただ、藩政期には主に製紙用の籠を作ったと聞いている」とのべる。西谷唯一の竹細工も、昭和三十年には製作されなくなった。現在、真竹にはその花が咲き、すっかり枯れ果てている。

目次へ戻る


上新保村(かみしんぼ)

屏風岩(杉水町)

石川県民の森を過ぎ暫く行くと、僻陬(へきすう)の村「上新保」の跡地に至る。その奥の杉木立の中に半ば苔に覆われた「屏風岩」があり、これを具(つぶさ)に見た人は深い感銘を受けた筈である。この岩に刻み込まれた今にも慟哭(どうこく)せんばかりの二人の顔にである。

『加賀志徴』によると、上新保村の先祖達は白山三馬塚の一つである越前平泉寺の衆徒として生活していた。戦国末に一向門徒衆との抗争に敗れ、彼らは大日山に分け入り、能美郡の新保と木地小屋との間に上新保村を作っていた。しかし、土地の耕作権を主張した新保村民によって二度の焼き打ちをうけ、再度小大日山を越えて杉水(すぎのみず)村の領内に住み着いた。その後、大聖寺城主山口宗永から永久出作りの耕作権が認められたのである。

藩政期における上新保村の石高は常に最下位であったが、天保十五年(一八四四)の『江沼志稿』には家数二十一軒(人口五十四人)と記している。しかし、明治二十九年の大水害によって同三十五年に一村あげて新天地の北海道に開拓移民として渡った。

屏風岩は、こうして村を去る人々がそれぞれの思いを絵や文字にして石に刻み付けたものである。

目次へ戻る


大土村(おおづち)

大土神社(大土町)

藩政後期の『秘要雑集』には、「御郡之内大土村の領高のまきといふ淵の上に、樫の木の林あり」とある。

『同書』によると、二代藩主利明の治世に天草より樫木の種を取り寄せ、大土村の山に蒔かせたもので、村へ行く道の近くに樫木の大木が多く繁っていた。冬、この樫木には夥しい猿が集まってきた。また、『旧村誌』には、「現在道より樫の大木を見るを得土人はなだれ林と称す、この木を切れば冬季大なだれ来る」と記す。

右について故老は「いま、『樫木山』と称し、町の下約一キロメートルの川向かいに樫が多く生立しているところがある。それは今立町のもので、これまでに何度が伐採したことがある。特に大正期から戦前までの炭の原木として伐採した。ただ、町の裏山の『なだれ林』に生立する橅(ぶな)・欅(けやき)などは切るとなだれが起こるといって、昔から禁木になっている」と説明する。『旧村誌』の記述は「なだれ林」の説明と誤ったものであろう。右例は奥山で多く見られ、九谷・真砂はじめ白山麓の村では今も橅の「なだれ林」が存する。

樫の植樹は、殖産政策の一環というより、むしろ治山・治水に重きをおいたものである。

目次へ戻る


今立村(いまだち)

今立村の成立について『江沼郡誌』には、「新保池、字今立の中央に在り、口碑に依れば能美郡新保村より、一、二の農夫来りてこの池水を飲料水となし、初めて居を占むるもの、すなわち今立の起因なりと。此の池は天然の清泉にして、一は飲料水、一は洗濯用とし、約一坪のもの二個を並べ、盛夏の候にも渇水することなし」と記す。

右からは同村の成立期を明らかにし得ないが、能美郡新保村と今立村の間に何らかの関係があったことを想像させる。故老の多くは、右の伝承を正確に伝えている。その一人は「昔から池は二つあり、右側の方が少し古いと聞いている。右の方は鍋洗い・洗濯用に、また左の方は主に食用に利用した。しかし、今ではあまり区別をせずに使用している」と述べる。今でも同町の山下啓次家の後ろに直径一メートルほどの清泉が眠るように二つ並んでいる。その水は滾々と湧き出すというものではないが、盛夏におけるその冷たさは他にあまり例を見ない。

なお、川原長吉氏(今立町)によると、桂清水(山中温泉の入口)に置かれている地蔵の一躰は、同家の前庭に存する小さな池の横に以前あったものである。

目次へ戻る


滝 村(たき)

『江沼郡誌』には、滝村の外れを流れる動橋川に「椎木淵」と称す深い淵が存し、それを椎の老木が覆っていると記す。

滝町と菅生谷との間に掛かる兵太郎橋より五百メートル程上流に、両岸より奇岩が大きく突き出して動橋川が極端に狭くなった所がある。そこが「椎木淵」である。此の淵を二本の椎の老木が覆い、神秘的な様相を醸し出している。二百年を経たという椎の老木は大人三人で抱えられる大木である。故老はいう「『椎木淵』は椎木に因んで付けられたものだ。もと椎の木は三本あったが、一番大きいものは枯れてしまった。あの淵には荒神様が住んでいて、死人を通すとすぐに椎木が揺れて次の日雨を降らす。二、三度雨が降ったのを見たことがある。そのため死人は菅生谷側の道より運んだ。と。『旧村誌』にも、(実際近年此事ありしより今尚村民のおそるる所なり」とある。戦前まで椎の老木に対する信仰が残っていたことがわかる。

右のような老木(大木)に対する信仰は全国各地に多く見られる東谷地区には奇岩(屏風岩・百坂岩)に対する信仰もあり、これらと結びついて一層強くなったものであろう。

目次へ戻る



地 図

目次へ戻る


あとがき

本書はすでに加賀市農業協同組合の『農協かが』(昭和五十九年の八月号〜同六十二年の六月号)、三谷婦人会々誌の『しゃくなげ』(昭和五十九年の十四号〜同六十二年の十七号)等にそれぞれ発表したものと、今回新たに書き加えたものである。

本書の刊行にあたり、江沼地方史研究会会長・元大聖寺高校校長 牧野隆信先生より身にあまる序文をいただいた。また直接に調査・論究上のご指導をいただいた野尻与之左先生(郷土史家)、春木秀城先生(現大聖寺高校)、宮崎哲雄し(郷土史家)に対して、ここに記して感謝の意を表したい。最後に、表紙の美しい写真を撮影していただいた佐伯芳造先生(現大聖寺高校)に対してお礼を申し上げたい。

なお、その内容については本文のとおりであり、巨細に渡る批判を期待するだけである。

昭和六十二年六月十五日


『加賀・江沼雑記』

『続 加賀・江沼雑記』

CALENDAR

2025年03月
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
2025年04月
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
  • 店舗休業日
  • 発送休業日

SHOPPING GUIDE