城下町の風物譚


現代に生きる人々が、衣食住の安定の中で生活できるのは、先人が残してくれた知恵のおかげであります。春夏秋冬の気候の変化に応じて生きられるのも、山川里海より食材を得て、それを調理し美味しく食べていけるのも、和風・洋風の館の中で、安らかな眠りにつけるのも、私たちの先達が知恵を絞って造作された諸物品のおかげなのです。

この度、老舗菓子店 げんば堂のお勧めで『城下町の風物譚』を発行することとなりました。これは「加賀便り(お店のしおり)」にお載せした随想の抜粋であります。上田工場長の誠意の中で、小杉山氏の見事な挿絵に支えられ誕生したものです。

ここ大聖寺は江戸時代に金沢前田藩の支藩として誕生した十万石の城下町で、財政は豊かではなかったのですが、文武両道、幾多の傑物を輩出しています。風物の面から、その残像を読み味わっていただければ幸甚に存じます。

大聖寺福田町 河崎敏夫



目 次

藍 染  洗張板  生け簀     いずみ

市松人形  糸繰車  井 戸         駅 鈴

絵双六  衣紋掛け  縁 台  大判・小判

  お雛さま      

蚊 帳    煙 管  脇 息

巾 着  鯉 幟  茣蓙・茣蓙帽子

コシキタ  炬 燵  炬燵櫓   独 楽

  竿 秤    三 方

自在鉤  七 輪      尺 八

三味線  重 箱  燭 台  信玄袋

    墨 壺  蒸 籠

  千両箱    大八車

    達 磨  箪 笥   

蓄音機  卓袱台  提 灯  衝 立

鉄 瓶  砥 石  陶 貨  陶 枕

富 札    長火鉢  長持ち  錦 絵

糠 袋  暖 簾  刷 毛  羽子板

柱時計  花カルタ 馬 鈴 藩 札

半 鐘  盤双六  半 纏  肥後守

鐚 銭  火熨斗  火 鉢  百人一首

拍子木  吹 子  風 鈴  福 助

風呂敷  箒と箕  法螺貝  

繭 玉  水 引  薬 研  柳行李

行 平  ランプ  和 傘  和 紙

和磁石  和包丁  


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藍 染(あいぞめ)


大正時代は藍染め紺屋(こうや)の盛んな時代で、全国に約三万軒もあったという。そして関東平野から山間部にかけて、藍を取るためタデアイの栽培は活況を呈していた。 

日本の紺屋での染色法は「建染め」といい、干した藍の葉を積み上げ、水をかけながら約百日かけて発酵させ、それを突き固め藍玉を作る。この藍玉を楢などの灰汁と石灰・ふすまなどを混ぜて甕に入れてさらに発酵させて作ったものである。

藍は天候や温度に微妙に反応するので、火を焚き、染料の温度保全に苦労するそうだ。甕に浸された布は黄褐色だが、水で洗い空気に触れると酸化して青に変色する。深い藍色にするためには、二十回以上も染めを繰り返すという。

こうして作られた藍染は野良着・手甲・脚絆・風呂敷等の布おとして長く使われた。しかし今は石油を原料とする科学藍に取って代わられたが、私にはかつての藍が忘れられない。

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洗張板(あらいはりいた)


最近まで衣類の洗濯をすうる道具として盥(たらい)・洗濯板・洗張板が使われていた。大盥は敷布の丸洗いに、小盥は一般用として洗濯板を差し入れ使っていた。

衣類の縫い目を解き、布状にしたものを洗ってから糊を付け、皺伸ばしするために、2m×50㎝ほどの洗張板を使った。上手のものは、歪まないように板の縁に縁取りがしてあった。天気のよい日、板の両面に糊をつけ、布を張り、乾かすわけだが、糊はふのりや残り飯を、袋状にした手拭きなどに入れ、ぬるま湯に絞りだしたものを使った。

この時[伸子(しんし)張り]といい、細い竹の両先に張りをつけた伸子を、布が縮まない用に取り付けてはるのだが、和服地の中でも銘仙などの仕上げによく使った。

幼少の頃、母が洗張りをするときに、伸子を渡すのが私の役目だった。今はこの洗張板も、除雪の際の窓ガラス防備の囲い板役として、その出番を待つのみとなっている。


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生け簀(いけす)

生け簀とは水面の一部を網・竹・籠などで仕切り、その中で魚を飼う装置で、本来はカツオ釣りの生餌として使うイワシを飼うためのものであった。カツオ船の場合、船にも生簀があり、餌は漁場までいまして運んだという。

河川・湖沼でも鯉や鰻に、この方法が取り入れられた。普通はこの中に入れる魚は、販売もしくは食用にするまでの一定期間、飼育しておくもので、枠は木や竹で浮くように作り、流されないように杭・錨・土嚢などで固定をした。潟などでは網生簀もあったが、付着物による網の目づまりで、水流が悪化し、魚は酸欠を起こすなどのトラブルが起こり大変だったようだ

私の町の裏町にあたる鷹匠町の河道(こうど)には、常時二個の箱生簀があり、鰻や鯰が生けてあった。子供の頃は悪いと知りつつ好奇心から、生簀の蓋をまくっては叱られたが、それも今となれば懐かしい思い出のひとコマである。

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いずみ

藁で作った揺りかごは、人手の少ない農村では欠くことのできない育児用具だった。丸く大きな藁かごに布団を敷いて乳児を入れるのだが、家の梁から吊るすのもあった

東日本では「イズミ」といい、西日本では「イズメ」といった。洗い晒しの木綿の浴衣をほどいて縫ったおむつに包まれ、ふっくらと安定したイズミに入っているネンネコは幸せそうだった。そして多少動いても外には落ちないようにイズミの縁から紐で体を固定しているのもあった

過日、丸岡の坪川邸(国指定の重要文化財)の千古の家を訪れたとき、オエに続くナンドの傍に最近目にしなかったイズミが置かれているのを見て、母の懐を見たような懐かしさを覚えた

辞典では、漢字で【箍(たが)】と書かれているのがあった。イズミは竹でなく藁か藺(いぐさ)の草の一種で作られているのにと、不思議に思った。本当はどう書くべきなのだろう。

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市松人形(いちまつにんぎょう)

市松の名の由来については二説ある。その一つは江戸中期、中村座の役者佐野川市松が、白黒の正方形の碁盤図のように並べた模様の袴を用いたことから、この名がついたという。

いま一つは、市松という孝行な子供がいたことが評判になり、江戸の町人達がその名にあやかり、わが子に[市松]という名を付けることが流行したのだという。いずれもまだ軍配は上がっていない。何れにしても市松人形は目もと口もと愛らしく、抱き人形として一度はわが腕に抱きたくなってくる

人形とはその言葉通り、紙・木・土などで人の形を真似て作った玩具で、古くは、[ひとがた]といい、宗教的儀式に用いられたが、のちは愛玩用として発達した。操る劇用の人形浄瑠璃とギニョールがあり、マリオネットもある

わが家の玄関控間には京の名工の市松人形が飾ってある。訪れる人にいつも笑みを送っているはずである。

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糸繰車(いとくりぐるま)

糸繰車の手挽きとは、江戸時代の主要な製糸法で、一方の手で生糸を巻き取る枠を回し、他方の手で数個の繭から引き出された繭糸を合わせて一本の生糸にするために、指と糸繰に添えて、撚りをかけるやり方でとても手数がかかった。

のちに座繰りといって回転ベルトや歯車で速度をあげ、糸を繰りながら切れた糸を繋ぐこともできるように改善され、能率もあがるようになった。<

私の叔母がいた仲町の旧家では、ベーコ(女中)は、掃除・洗濯など用務が終わると、玄関横の女中部屋で、カタカタ音を立てながら糸繰車をよく回していた。

当時の女中の月々の手当てでは、イッチョウライのバーコ(晴れ着)も作れなかったので、内職をして頑張っていたのである。

昭和初期の女子の内職は糸繰りであり、男子は九谷の絵付け等で、大聖寺の二大産業を支えていたのである。

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井 戸(い ど)

井戸とは水の集まる所(井處)の意である。その井戸には堀抜井戸と菅井戸がある

これらの井戸の中で一般的なのは堀抜井戸で、始めは鉄竿の長さ数丈のもので地中に穴を開け、鉄竿で岩を突貫して水脈へ入れ、竿を抜いて清水を湧き出させるのである。そして、その穴まで竹筒をおろして上部に井戸側をつけ、地中は厚さ一寸余りの瓦でたたみ積めば仕上がりとなる。

掘抜井戸は地表より七メートル以内の浅井戸と七メートル以上の深井戸があった

昭和中期までは、丸太で三角櫓(やぐら)を組み、綱を引きながら音頭取りの声に合わせ、大勢の人夫たちが「ヨーイトマケ」の掛け声勇ましく鏨(たがね)と人力で井戸堀をしていた。

その後、竹の弾力を巧みに用いる「上総掘り」の工法や、動力による近代的な工法が導入されたが、水道の普及でこの風情ある井戸掘りの姿も見られなくなってしまった。

せめて今ある井戸の保全を望みたい。

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駅 鈴(えきれい)

日本古代の人馬の乗り継ぎ所をさす駅では、公務出張者や公文書伝達の駅使らに駅馬利用の資格証明とした鈴を貸与した。これを駅鈴といい、【剋(こく)】という刻みが、身分により付けられていた。そのため駅鈴の保管にはずいぶん気を使ったらしい。

この駅伝制の駅は駅家(うまや)といい、私宅と役場を兼ねていた。そこに厩舎(きゅうしゃ)・水飲場や駅長らの事務室・馬丁(うまかた)の休息する建物があったという。駅家は兵部省管轄下にあり、十世紀初頭では全国に四〇二駅あったという

駅馬を使う資格としての駅鈴は、青銅・金銅・銃鉄・金銀などの金属が多かったが、他に土製・木製のものもあった<。

私も務めていた頃、修学旅行で箱根の関を訪れたとき、箱根駅鈴のレプリカを求めてきた。今も手近なところに置いているが、見るたびに、本物の駅鈴を見たいものであると思うことしきりである。


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絵双六(えすごろく)

盤双六が衰え始めた江戸時代中期になると、サイコロで遊ぶ簡単な絵双六が庶民の間に登場してきた。

まず寛文年間に仏法双六が始まり、良い目は極楽、悪い目は地獄に墜ちる趣向のものが流行しだし、その内に彩色を施した官位双六・道中双六・飛び双六などが流行するようになった。

そのころ、碁と将棋は大衆娯楽の華として男性社会に幅をきかせていたが、子供と子供相手の女たちの間では、絵双六が次第に普及するようになってきた。

そして昭和期に入ると、子供雑誌は競って時代の先取りをして各種の絵双六をその付録として添えたため、お正月になると双六とカルタが室内遊戯の王座を占めるようになった。

わが家に「昔咄赤本壽語録」といい、版元が芝神明前和泉屋市兵衛(芳幾画)のものがある。狐の嫁入りや文福の出てくるもので、六種のお伽話が入り乱れ誠に面白い。家族団欒のために復興させたい一種である。

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衣紋掛け(えもんかけ)

衣紋(えもん)とは、衣服の付け方の作法とも、衣服の胸で合わせた所で襟元とも、絵画や彫像に現された衣服の襞(ひだ)だともいう。

衣紋掛けとは、衣服をかけて吊す短い棒のことで、普通は衣桁といっているようだ。昭和の代は女の嫁入り道具の一つとして、箪笥・長持・鏡台と共に衣桁はその重要な一点でもあった。女物は赤地漆でしつらえてあり、搬入された嫁入り道具の披露の際は、座敷に飾られた諸道具の中では、赤漆の衣桁と、そこに掛けられた花嫁衣装はじつんい艶めかしく華やいで見えた。これに金蒔絵などほどこされていると、貴族的雰囲気すら感じさせた。

部屋隅に神妙に置かれた衣紋掛けは、子供の暴れん坊の一郭となり、時には秘め事を隠す場ともなっていたようだ。

洋間が多くなった近代建築の中では衣紋掛けは、その存在すら危ぶまれる。

衣紋掛けよ今一度その存在をアピールしてほしいものである。

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縁 台(えんだい)

縁台とは、庭先や路地で夕涼みや月見などに使った細長い台で、木製と竹製があった。関東では床几(しょうぎ)といった。当地では一様に縁台だった。

家屋の縁は普通庇(ひさし)の外に付けられ、ここは軒下にあるため、雨露がかかるので、水滴がたまらないように細い板状として間を透かせ、簀の子として並べ、打ちつけた。俗に「簀の子」「縁」で、室町時代の書院造りでは「濡れ縁」たいった。

<江戸時代になると、一般庶民でも縁台は蒸し暑い日本の夏の夕涼みには、欠くことのできない家具となった。

城下町の切り妻、平入りの町屋は、軒を連ね、軒下は雨の日でも少々の雨なら傘いらずの通路となり、夕刻になると縁台が出され、格好の夕涼みの場となった。

蚊取線香の匂いの中で、町のご隠居から明治・大正の話を聞くことは私にとって、心の癒しとなった。

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大判・小判(おおばん・こばん)

近世の黎明期に、金銀の持つ力をいち早く理解し活用したのは豊臣秀吉である。天正十年信長の旧領但馬の生野銀山を直轄領として、さらに上杉景勝を会津に転封して佐渡の金山も直轄とするなど、諸国の金銀鉱山を接収したり運上金を課してその支配権を掌握し、集めた金銀を最も派手にばらまき、諸豪を圧倒している。そして島津征伐では敵の頸と金銀を交換するまでするとは‥‥。

天下を統一すると、後藤家に朱印状を与え、大判を鋳(い)させている。この天正十六年の大判こそ、日本初の大判金で上下に菱形の極印があることから菱大判といわれ、品位も良く、量目一六五グラムあった。

<私が昭和期やっと入手した文政小判は、字が草書で書かれているので草文小判ともいわれ、量目は十三グラムで、大判に比べ十分の一もない。それでも鬼の頸を取った思いがした。大判を手にし、オリンピックの金メダルのように噛んでみたいものである。

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桶(お け)

桶は少し前まで台所の必需品であった。流しには径30〜40cm、深さ15〜20cmほどの洗い桶と、深さが30cm内外の水桶が、そして井戸端には釣瓶の横に水受けの桶が置かれ、土間や縁の下には漬物桶があったものだ。

桶は最初の形は曲物、つまり、桧や杉の方木を円筒形に巻いて合わせ目を樺(かば)皮で縫い底をつけたものだった。「をけ」とは苧(を・麻)と笥(け)、つまり苧を入れる容器という意味であった。漢字の桶(とう)は古くは酒や穀物の量のことだったが、後には水を入れる円筒形の容器を指すようになった。この桶には水桶・火桶・腰桶があり、肉や酒を入れるものもあった。

桶作りは短冊形の板を円筒形に並べ「がわ」として箍(たが)をしめたものが多く使われた。側板は杉とか檜のように素性のまっすぐな材を木目に沿って割り裂き板として作った。

わが家にまだ行水用の大型桶がある。タガがどうなっているのか調べたい。

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お雛さま(おひなさま)

三月三日の節分に供物をする習慣が昔からあった。平安時代には草餅を、室町時代からは白酒を供えたことが文献にも見える。

また節分には人形を作って身体を撫で、身の穢れや禍を人形に移してお祓いをし、この人形を室内に飾るようになったのが雛祭りのもとだという。

江戸時代の初期は、小さな屏風に紙雛を立て掛け、草餅や白酒を供える程度だったが、やがて布で内裏雛を作り、その他の雛や飾り物も供えるようになった。そして同時期からは、一段目に内裏雛、2段目に三人官女、三段目に五人囃子を、さらに随身(警備)や仕丁(じちょう=下男)などを飾る現代様式が定着してきたのである。

大正天皇が西欧の王侯貴族のしきたりに習い、皇后を右側におかれたご真影を発表されてから、男雛を向かって右に並べるようになった。

わが家にある、忘れられた雛人形・市松人形などを、今年は久しぶりに飾ることにしよう。

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兜(かぶと)

三月三日の桃の節句には雛人形が飾られ、五月五日の端午の節句に武者人形が飾られる。これは日本住居に似合う、誠に日本的な飾り物であるといえよう。

この男子の節句に飾る武者人形の兜は、武将が頭部を防衛するための武具であり頭を入れる鉢と、その下に垂れる錣(しころ)という頚部の覆いから成り立っている。

これらは鉄や革で、頑丈に綿密に作られている。兜の緒とは、兜を首に安定させるための紐のことである。兜の星とは、鉢の表面の疣(いぼ)状突起のことで、その鉢の後部に古式の物では『総角(あげまき)』が短く飾られているものもある。兜のてっぺんを八幡座(やはたざ)といい、ここは兜の尊厳なところである。錣は鉢付き板・一の板・二の板・三の板・菱縫板と連なり、首を覆っている。

わが家にも兜が二つある。一つは実物大だが、今一つはミニチュアである。共にそれぞれの場所でその座を占めている。いいものだ。

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竃(かまど)

家の台所の一座を占める竃のことを当地では「へっつい」といっていた。「かもど」とは釜所のことで、「へっつい」とは竃をまもる神という意味である。普通は石台竃が多く、ときには土製竃のものもあった。古くは銅壺を土竃に交えて作り、水をいっぱい入れて竃をたくと、壺中の水はお湯になるので、この湯を諸具洗いや洗濯に用いた。

町屋の狭い家では、竃を減らして煮炊き用に炭火を利用する七輪という焜炉を用いるようになった。竃は普通土間を背にして土や煉瓦等で築き、その上に銅や釜をかけた。釜をかける場合、甑(せいろう・土製)で蒸すことも多かったので安定した竃を必要とした。

昔から竃は家にとって精神的結合の中心であり、社会的・宗教的にも重要な役割を占めていて、神符や御幣(ごへい)を納めていた。

今はこの竃は生活に便利な電気・ガス炊飯器等に変わったが、さて家族の結びつきはどうなっているのだろうか。

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蚊 帳(か や)

夏の風物詩でもあった蚊帳は、梅雨明けの吉日を選んで「吊り始め」をし、秋風立つ吉日に「吊り別れ」をし、季節を迎え送る一つの節目として年中行事を行っていた。

伝統的な民家の夏座敷に垂れた簾(すだれ)の隙間から、緑の紗(しゃ)の布に赤い縁の回っているのが見えたりする風情には、快い和風を感じさせる。

蚊帳は江戸時代は奈良・越前・八幡が産地であった。やがて近江長浜でも生産されるようになり、浜蚊帳として名を馳せた。今もナイロン製と、純麻製のものが作られているという。

母と二人で向かい合い、短辺の端と端を合わせて摘んで、腕を前に振り、裾を向こうへ揃え畳んでいたことなど、つい昨日のように思い出されてくる。

障子を外した広い空間を密室化さす、半透明なカプセル状にした蚊帳は安らかな精神安定の場であった。

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簪(かんざし)

簪とは「かみざし」から出たことばである。古代は髪に生花をさし、これを挿頭花(かざし)といった。その後、金・銀・銅の棒を折り曲げた二本足のも出てきた。

正式に女子の髪飾りとなったのは江戸時代からで、髪の結い方にも工夫され、それに合わせて簪や櫛(くし)もずいぶん華やかになっていった。

簪の先端に耳掻きがつき、その下に珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)・翡翠(ひすい)・金銀・ガラスなどの玉のついたのを玉簪といい、薄く平たい丸形や花形のものを平打簪といった。また金銀・鼈甲(べっこう)象牙などの飾りの付いたものを花簪といった。さらに金・銀・銅などにより幾筋もの鎖や鈴をぶら下げたものをびらびら簪といった。

和服を着て桃割れを結い、びらびら簪をつけた日本の娘さんは、世界一の贅沢な女性の美しさだろう。お正月に近所の家へ百人一首をとりにいったが、女性の華やかさに圧倒され散々だったことも、苦く楽しい青春の思い出である。

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煙 管(きせる)

江戸時代から昭和期まで煙管は男の遊び道具であった。煙管の拵えと吸う振る舞いで男の値打ちがわかるとまでいわれた。

煙管は雁首と吸口とそれを繋ぐ竹菅の羅宇(らう)からなっていた。羅宇をラオスともいったのは、ラオスから来た竹を使ったからだという。

わが町にも昔はよくラオス屋が車を引いてやって来た。羅宇は煙を冷やす冷却装置を持ち、これで掃除をするので、煙草も一味美味しくなったのだという。

雁首と吸口は専門の職人が作った。その材料は金・銀・銅・真鍮・赤銅・四分金などの一枚地金を扇型に切り、叩いて打ち出して作った。金はヤニが焼き付かず、銀は吸殻が落としやすいなどいろいろな特色を持っていた。

雁首、吸口や煙草入れ、の様々な意匠を凝らし風流を楽しんでいたようだ。私も一度、長羅宇を買ってきたが、父からそれは花魁(おいらん)用だと注意を受けた。苦い思い出である。

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脇 息(きょうそく)

脇息というと難しく聞こえるが肘掛というと「何じゃ肘を曲げて持たせ掛ける道具か」ということで、すぐに理解ができる。

肘とは上腕部と前腕部が連なる関節部で、「肘を曲げて枕とす」とは論語の述而にある言葉で、ごろ寝をすることをいう。つまり貧乏な暮らしでも暮らせるということである。

肘突きとは机の上に置いて、肘をつくとき敷く小さい布団のことで、肘布団ともいい、脇息代わりに用いた。肘鉄・肘鉄砲とは、先方の申し入れを強くはねつける言葉として、「肘鉄を食らわす」の語を生んだ。

私の父は大の義太夫好きで、いつも居間の傍に脇息が置かれ、父の憩いのひと時を与えていたのに、痛みがひどくなり、その存在感を失っていた。ところがこの度、親類から立派な脇息が輿入りし、私のパソコン横で、その存在感を示すようになったことは嬉しい限りである。

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巾 着(きんちゃく)

主として腰に下げる装身具の一つで、皮・羅紗などの高級織物で作り、口を緒でくくり、中にお守札・金銭・印形・迷子札などを入れるのに用いた。

もともと巾着は腰に下げる道中用の火打袋の変化したもので、袋物であり、銭入れとしても使われるようになった。

当初は革製が多かったが、元禄時代より装飾品として華美を競うようになり江戸時代末には御守袋と銭入れとを兼ね、縮緬製のものが婦女子の間で流行した。金銭を入れ腰に下げていたので、スリが狙い、カミソリで切り取るものが現れ、「巾着切り」の語が生まれ、また絶えず人の腰について歩くことから「腰巾着」の語も生まれた。明治中頃から財布の普及により巾着も廃れていった。

母が残した針箱の中に、毛糸編みの小型の巾着があった。中には五十銭銀貨が詰まっていた。今は私の温かい宝物となっている。



鯉 幟(こいのぼり)

屋根より高い竿を立て、頂きに金色の風車をつけ根に矢車。その下に家紋をあしらった五色の吹き流しや、悠然と泳ぐ十米余りの黒々とした真鯉と、やや小ぶりの緋鯉。さらに五尾、七尾と続く。錦鯉の産地は西は播州、東は埼玉の加須という。

五月五日の端午の節句として祝うことは、唐から伝来した風習だが、武家がその祝い物として旗指物や吹き流しを掲げたのに対し、振興町人は立身出世の願いを込め「恋は滝を上って龍と化す」と前途に望みを託して、鯉を吹き流しに加えた。

大正唱歌に『大きい真鯉はお父さん、小さい緋鯉は子供たち』とある。お母さんは出てこない。真鯉緋鯉は夫婦ではなかったのだ。

端午の節句に柏餅・笹の粽(ちまき)・菖蒲湯・菖蒲の枕。そして青葉若葉に鯉幟。日本の初夏は心地好い。西洋のアドバルンは静かで気流の流れは敵だが、鯉幟は乱れを味方としている。頑張れ、鯉幟よ!

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茣 蓙(ご ざ)・茣蓙帽子(ござぼうし)

茣蓙とは藺草(いぐさ)で織った敷物で、薄縁(うすべり)ともいった。古くは筵ともいい、畳の一種である。筵は普通、藁(わら)だが、昔は竹・菅・藺草などで織ったものをみんな筵といっていたようだ。畳とは筵や茣蓙の総称で、人が座るときだけ敷いて普段は巻いておいた。これに高麗縁(こうらいべり)などの裂(きれ)をつけ貴人が座る所に敷いたので、【茣蓙】の名がついたといわれている。現在の茣蓙には経(たて)に綿糸を緯(よこ)に藺草を入れ織った物で、四辺に綿や麻などの縁をつけて用いることが多い。これに模様を織り込んだ花茣蓙もある

この茣蓙を利用して作ったものに茣蓙帽子がある。東北や北陸の雪国では降雪時にすっぽり頭より被った。番傘は雪が積もって駄目で、ゴム合羽は汗が内面に溜まるが、その点茣蓙帽子はさらりと雪を落とし、汗は内にこもらず良いので、少年時よく用いていた。

外見は悪いというが、茣蓙帽子愛好家の一人であった。

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コシキタ

コシキタはコシキ・コスキ・コーツキともいい、雪かきや雪掘りに使う木製の道具で、感じ気は木鍬と書くので訛ってコシキといったのであろう。当地ではコシキタ・コシタケと語尾にタを付けていた。つまり道具でいうスコップのことである。材料は強くて軽くなくてはならず、主としてブナを使い、一本の材から全体を手作りしていた。

鈴木牧之の有名な『北越雪譜』でも、雪を払うの項で、「雪を掘るには木で作った鍬を用ふ」とある。

掘った雪を人の妨げにならぬ所に山のように積み上げる。これを掘り上げといった。コシキタの持ち手の長短・根元の太いの・掘る面の平たいの丸いの・足かけ部のあるのなど色々工夫されていた。雪かき道具として金属製のものが出回るまで、屋根の雪下ろしの主客であった。屋根を痛めない、家囲いを傷つけないと、今も雪国で使われているそうだ。

コシキタで雪合戦をしていた子供の頃が懐かしい。

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炬 燵(こたつ)

炬燵の基本型は囲炉裏の残り火に灰をかぶせて火持を良くし、櫓(やぐら)を仕掛けて蒲団を掛けたもので、厳密にいえばその櫓のことであった。

囲炉裏は床を掘り下げるので掘り炬燵といえる。これに対し置炬燵は、囲炉裏を火皿に替え、熱源と櫓を一体化して持ち運びできるようにしたもので、都市型住居向きとなり広く普及していった。やがて行火となり、さらに手あぶり懐中用のものまで出来、これが懐炉(かいろ)となった。

炬燵を使い始めるのは【神無月の中の亥の日】を吉日としたので、たいていの家では、この日に炬燵あけをした。堀炬燵は普通は脚を伸ばしやすくするため腰掛け式のものも開発されるようになった。

わが家の居間では、熱源は木炭から電源に変えたが、腰掛け式炬燵を採用している。そのためか、炬燵は昔の卓袱台(ちゃぶだい)的役割を保ちながら、一家団欒の機能を充分に果たす場となっているように思われる。

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炬燵櫓(こたつやぐら)

炬燵櫓は炭火をいけた容器を入れた物を覆うものや、堀炬燵といって畳を仕切り、低くした所を石や銅で囲み、これに炭を入れ、炭火をいけた上に布団を被せ置くための木でできた四角形の枠である。


都会地では冬だけの商売として、炬燵櫓の壊れを直したり、新しい櫓や修理済みの物を持って来て、壊れ櫓と取り替えることもあった。

鋳鉄師・磨き師・羅宇屋・錠前直しと同じで、技を売る出商のひとつである。現在のように物を直して使うことをしない時代から見ると、藩政時代から大正期にかけては、煩わしいようで、羨ましいとも思う。

その時代の人は、生活のために買ったつまらないものでも、一つの道具に想いを込め、購入年月日を書き入れ、そのものを大事に使った。そして愛情が入っているだけに、簡単に捨てるようなことなく、直し乍使ったのである。それだけに粗大塵も少なかった。心すべきであろう。

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昭和の中ごろまで、正月の遊びは男は凧揚げと独楽回し、女は羽子板とおじゃみが主流となり、その中で一番人気のあったのが独楽回しであった。

独楽回しは古くは奈良時代、神仏の縁日の余興や貴族の遊戯として行われていたが、元禄時代に九州で広がりだし、やがて京の四条河原で曲独楽をする者が現れ、大人気となり、各家々でも独楽回しに挑戦する者が増え始めたという。

その内に独楽を回すことを職業にし、歯磨粉を売りながらの辻商人も出てき、江戸にはその名人による将軍の御前演技も行われたそうだ。

ここ大聖寺の神明宮の祭礼でも独楽回しの名人が小屋掛けし、独楽の綱渡りや刃渡しを演じ人気上々だった。

私も愛用の独楽を三個持っていた。その一個は当て喧嘩用で周りに鉄の輪が入り、重量感があって強かった。その独楽も今は見当たらない。どこに隠れているのやら。

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昔から日本人は農耕民族といわれるように、農業を主とした生活をしていたので、月の満ち欠けで作られた太陰暦がその基盤となっていた。

ところが、時代と共に農業人口が減少し、栽培法にも変化が現れ、品種改良や農業技術も進み、太陰暦への意識も次第に薄れつつあった

ときあたかも、明治維新を迎え諸外国とは、条約交渉や文化交流の上からも日付が違うことが大きな妨げになったので、新政府は英断をもって、諸外国が用いていた太陽を基準とする太陽暦を採用することになった。

明治五年十二月三日を明治六年一月一日(元旦)とした。当時の庶民は改革の理(ことわり)もわからず、明治五年が一ヶ月ほど短くなることで混乱もあったようだ。

旧大聖寺藩でも、事があったら大変だと、藩知事だった前田利鬯は緊急書簡を国元へ発送し、人心を案じられたという。



竿秤とは棒ばかりともいい、梃子(てこ)と錘(おもり)による質量ばかりのことである。

この秤は質量の目盛りのある一つの直線形の梃子を使用し、その梃子に沿って、錘を移動させることで釣合を得させる手動秤であった。古くは日本では竿に金属は使わず、木・角・骨などを用いた。

江戸時代になって幕府はこの棒秤の製作・修理・販売及び取締りは江戸と京都の秤屋で独占的に扱いをさせた。時々秤改めをし【改】の焼印を押し印料をとった。悪い秤は破棄し、勝手に補修すれば罰も与えていた。構造は、竿(棹)・錘・皿・取緒(とりお)からなり、竿は赤樫か黒柿で目盛りを入れた。錘は真鍮や鉄、唐金で皿は真鍮。取緒は錦糸と麻糸に撚(よ)りをかけて作った。

私も幼少の頃、母の傍らで棒秤の錘を動かせながら、根気よく行商のアンニャマと値段の駆け引きをしている様子を面白く見ていたものである。





笊は主としてし竹製品で、それも真竹が主で、ほかに篠竹や各種の藁製品もある

もともと笊は水切りが主体だったが、不要なものを漉す道具ともなり、芋や豆類は[うらごし]として餡を作るのにも使われるようになった。

目の粗い網かごは水洗いした野菜などを入れておくのに使われ、小笊は茶漉し用となった。底部の丸く編んだ口広の笊は、底の座りはよくないが、研いだ米の水切り用に使われた。その形態が亀の甲羅に似ているので、亀子笊とも呼ばれた。すいのうは野菜の水切りに使う漉編(こしあみ)で、曲げ物の底に馬の毛を細かく編んだ網を張って使っていた。網は金網や寒冷紗張りもあった。

私の少年時代は新町はずれの小川にずいぶん小鮒やドジョウがいた。町内の悪童たちと、家の亀子笊を持ち出し、笊の口広部を砂利や水草につっこみ、魚を獲ったのはよかったが、笊を壊して叱られ大変だった。

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家庭で一般的にお盆といっているのは丸くて平たいもので、水や食べ物を守る丸くて深みのあるものを鉢と呼んでいる。

この場合の盆とは、もともと中国語で、日本で使われるようになったのは室町時代からである。それまでは主として丸いものは盤といい、四角いものを折敷(おりしき)といった。江戸時代、折敷の隅を切った「隅切折敷」と隅をへこました「入隅折敷」と、高い足をつけた「足打折敷」とがあった。折敷とは[折り敷く]ということで、片木の四方を折り廻して縁としたもので、神仏や貴人にお供えするために、檜の折敷に台を付け三方というようになった。三方とは穴が三方に開いているのでついた名である。

大聖寺のお正月は、座敷の床飾りとして三方を置き、お鏡を重ねて飾ったり、玄関の間に挨拶回りの名刺受けとして三方を置き、厳粛な気持ちで元旦を迎える習わしであった。

いま、家庭における三方はどうなっていいるのだろう。




囲炉裏は、家のすべての機能からも、精神的なものからも家の中心となっていた。

囲炉裏には、魚や野菜を煮炊きするため、上の梁から鈎(かぎ)を吊るして鉄瓶・鍋・釜をかけるのだが、多くは高さが自由に調節できるように自在鉤がついていた。

自在鉤は力学を利用したもので、木または金属の横木の一方に穴を開け、ここに綱を通し、綱の下端に鍋掛のための鈎をつけ、横木の上に出た綱は梁から吊るした上の鈎にかけて折り返し端を横木の一方の端に結びつけ、横木を少し傾けて鍋を吊るすと、横木の穴を通っている綱がテコとなって任意の位置で留まる仕組みとなっている。

この場合、横木は力学的に重要なものとなるので、デザインにもいろいろ凝っていたようだ。

わが家の居間の梁には、現在は囲炉裏は塞いでいるものの鉄製の鈎がくすんだ鈍い光沢を放ち、往時の活躍を偲んでいる。




七輪は七厘とも書き、その語源は燃料の炭の代金が七厘で十分に足りたところから来ている。関西で「かんてき」と呼ぶのは、すぐに火が起こり癇癪(かんしゃく)である。というのが転化したのだといわれる

農村は別として都市では竃(かまど)による炊飯生活が薪という不便さもあって、木炭の普及が焜炉(こんろ)という簡単な炊事用具を生んだ。七輪はこの焜炉の一種といえる。土製で角型と円筒型があり、下部に空気調整用の口が開いている。はじめは金枠の内側を土で固めた素焼きだったが、後に珪藻土製のものとなり、たいへん軽便だったが壊れやすいので、鉄輪で鉢巻した形状となった。

昭和中期より石油・ガス・電気の普及と共に、急速にその需要は減少していった。

今後もグルメの時代に入り、七輪が見直されるときもあるように思われてならない。



卓をショクという読み方は、国語辞典によれば唐音で、仏前などに置き花を供える机とある

しかし漢和辞典では、卓のタクは[たかし・高く立っている・机]とあるが、ショクとは読んでいない。国語辞典にあって、漢和辞典にない字のひとつであろう。

日本住居には室町時代から書院が設けられ、その座敷に床を付け、ここに書画・生花・香炉・置物などを飾る風習が出来、城下町では武家はもとより町屋でも座敷には床の間を設け、普通は正面に掛け物を掛け、そのもとに卓が置かれていた。卓には平卓・高卓・丸卓・六角卓・冠卓がある。

わが家にも数個の卓があるが、この中には螺鈿(らでん)つくりのものもある。正しくは螺鈿細工とは厚貝を嵌めるもので、普通床の間に飾るものは青貝蒔絵の卓である。兎に角、楚々とした掛け物の下に怪しく光る青貝の卓は、その場に高貴さを醸し出しているようである。




尺八は古代雅楽の中に用いられていたが、その伝統は一度途絶えたしまったそれが江戸時代禅宗の一派の普化宗(ふけしゅう)が修行の法具として再登場させた。究極の目的は悟りの境地であった。

明治になって宗教的存在を離れて、家庭音楽として「三曲合奏」が始められ尺八は、筝・三味線と共に演奏するようになった。その流派には、琴古流・明暗流・都山流がある。この尺八といえば誰もが諸国を托鉢しながら遍歴をしていた虚無僧(こむそう)を連想するだろう。彼らは特に東北と関東に集中していたようだ。その後浜松の虚無僧寺の普代寺で山葉(やまは)風琴製作所が生まれ、やがてオルガンが生産された。虚無僧尺八の終焉が日本最初の洋楽器生誕地となったとは皮肉なものである。

昭和初期の少年時代には、尺八を吹き門付けをする虚無僧を時々見た。「明暗」と白で書かれてた黒箱を胸に、深編笠を被った異様な姿に、恐ろしさを感じながらその音色を聴いていたものである。




三味線とは室町時代の終わり頃琉球から伝えられたという。

もともと中国南部の格式ある紳士階級の教養音楽として伝わったのであるが、日本では町人の遊興音楽として行われるようになった。

つまり、その思想は伝わらなく、市井の流行歌か仏教説話の芸能や物語の浄瑠璃などの娯楽用として普及し、やがて時代が下がるに従い、三味線も「歌い物」と「語り物」が生じ、用途に応じて太棹(さお)・中竿・細棹が使われるようになった。構造は四角い枠の胴と長い棹と糸を巻く転手(てんじゅ)からなり、胴は花梨・皮は猫か犬・棹はインドの紫檀などの硬いもの・糸は絹の撚り合せを使う。太いのは低音になっている。

明治初期生まれの父は浄瑠璃好きで役所から帰宅すると、蓄音機を回してよく義太夫を唸っていた。SPレコードを見るとは、父の声が聞こえてくるように思われる。




重箱という食器が、日本の食生活資料として見えるのは、十六世紀初めであるから、その歴史は古い。もっとも昔は食籠(じきろう)といい、六角・八角・・円形の重ね形式であったようだ。今日でも、結婚式や建前(棟上げ)・陣中見舞などに使われているようだ。

重箱にもいろいろあって、行楽地向きの手提げ式の物や、枠台に乗せて携行できるものもある。花見や小学校の運動会などの催し物で、家族が重箱を囲む姿には日本的絵画の世界が展開する。またこの重箱は、お正月のおせち料理の盛り合わせ容器としても重要な役割を持っている。

私たちは今一度、重箱の果たす役割を思い出して、赤飯・饅頭・ぼた餅・お寿司などと共に、日本の四季に育(はぐ)まれ、生みでた山海の珍味を、よりおいしく美しくセットして、家族が、友達が、仲間が、互いに食談義をし合うことで、、親和の輪が広げられていくことと思われる。

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日本では灯火具として早くから油を用いた灯台があった。

鎌倉時代の末に中国から来た禅僧によって蝋燭(ろうそく)が伝えられたところから燭台が生まれ、室町時代の末には、室内照明用具として盛んに用いられるようになり、いつしか灯台はその姿を消した。

燭台には、木製・鉄製・真鍮製などがあり、手に持ち歩くものを手燭といい、柱や壁にかけるものを掛燭といった。最初は裸火のまま用いていたが、やがて行灯(あんどん)と同じように火袋をつけたものが工夫されるようになった。これが雪洞(ぼんぼり)である。江戸時代の照明はこの燭台と行灯と提灯であったが、明治に入って電灯が普及し、携帯用には電池が用いられるようになってきた。そのため燭台は寺社の祭礼や特殊茶会に用いられる程度になってしまった。

わが家では、この燭台は停電と天災に備えての重要備品として、今も玄関脇にその座を占めている。



武田信玄の肖像画の背後にある袋物に似ていることからこの名がついたという信玄袋は、方形か長方形の底板の周囲を織物の布で囲み、口の部分に太い組紐を通して、風呂敷より便利な雑貨入れとして用いられたのが始まりとされる。

これは皮製の手提げ鞄より、和服に似合うので次第に流行するようになった。なおこの袋はいっさいがっさい入ることから合切(がっさい)袋ともいい、小振りに作り底に編み籠をつけたものを籠信玄ともいい、若い婦人に珍重された。また和装の場合、腰に下げる実用と装身具的な役割を兼ねた巾着は、主として硬貨や印判をおさめる小さな袋物で、絹織物・羅紗・革類で作られ、形も円形・楕円形・干柿系などあった。この巾着に硬貨を納めるため、これを剃刀で切り取る掏摸(すり)が現れた。これを巾着切りという。

わが家の古い引き出しから母の手作りの巾着が出てきた。五十銭銀貨がつまっていた。私にとっては思い出の一品である。





鈴とは原始的楽器の一つで、世界中の民族に使われていた。日本では縄文期の物が出土されている鈴には金・銀・鉄の金属から土・木製のものなどがあり、形は球状で一日雨に切り口をつけ、内に丸を入れたものが普通で、中には円筒・円錐形でそこを開き下を吊るしたものもある。

この鈴は単独で使うが、時には数個合わせ、他の物に付属させて使われる場合もある。わが家の居間に大きさが10センチ大の鉄製の鈴がある。これは茶道具の一つで、待ち合いの客に知らせる合図として使われたものだ。その他巾着に付けたもの、釣りの竿先につけるものなど色々ある。私の保存しているものに、駅鈴・馬鈴があるが、これらは今は実用ではなく、装飾品として地位を得ている。昔を偲ぶものにと土鈴館があったり、女子には「美鈴」という名もある。

鈴は日本の美の象徴の一つだ。鈴虫の聞ける日本は良いところだ。



墨の原料は煤である。その煤は油脂を燃やして採集する。松脂(まつやに)で作ったのが松煙墨で菜種・胡麻桐の油を使ったのが油煙墨である。他に安いものとしては、重油雨・軽油・鯨油や鉱物性の油脂の煤を使ったものもある。

松煙墨の場合は、山の中に松焚き場を建て、中に和紙を貼った障子小屋を作り、松の立木を斧で皮を剥ぎ傷をつけてそこから噴いてくる樹脂を削り取ったものを不完全燃焼させ、その煤を掃き落とし回収して作ったもので、紀州の山が原産地といわれる。

墨匠といわれる人は、この松脂に膠(にかわ)や香料を加えて練り独特の香りのする松煙墨を作るが、その墨は青みがかった黒色で特殊の光沢を放って美しい。

私の家にも各地で求めたいろいろの墨がある。割合高い値で求めたのに、いくら磨っても濃くならないものがあるが、しかしそれなりに味がある。淡墨の色合いは、日本の自然の色でもあるようだ。





墨壺は大工が木材に直線を引く道具である。墨汁を浸した糸をピンと張り、指で弾くと木に直線が印される。長尺物を扱う大工には欠かせぬ道具である。

墨壺の歴史は、古くは奈良時代の正倉院御物んいもその存在が記され、一般に普及しだしたのは江戸時代からだといわれている。

本体の中央部を腰高にして、車と呼ばれる糸車を一枚板で罫引(けび)き、滑らかに回転しながら糸が出入りできるよう苦心して作られていた。材料は乾湿の変化にも適応し、堅くて粘りがある欅が用いられた。その糸は丈夫で墨の含みのよい絹糸が使われ、壺にはネバシと呼ばれる綿を入れ、これに墨汁を浸した。墨壺は形により流派があり、木挽き職人が工夫を凝らし作り上げて売り歩いていたという。

わが家にも墨壺はあるが、今は実用というものではなく、棚を飾るアクセサリーの一つとなっている。活躍していた時代を偲びたい。

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蒸 籠(せいろ)

弥生時代から、われわれの先祖は火を使ってものを煮炊きして食べ、火にかけても割れない素焼きの土器でお湯を沸かし、その湯気で米を蒸して食べることをするようになったこの蒸し器にコシキ(甑)や蒸籠を用いた。

コシキとは炊くからきた言葉で、米を炊くための道具である。煮る方法に加え蒸す方法も広がってきた。始めは曲物(まげもの)中心だったが、やがて木を井桁に組む角形のコシキに変わった。

木製のコシキは江戸時代からセイロウと呼ばれたが、それは饅頭が影響しているらしい。饅頭とは中国では蒸餅(ジョウヘイ)といい、宗時代の林浄因という禅僧が奈良で饅頭作りを始めたのが元だと言われている。中国では肉や野菜を包んで蒸したものだが、日本に入り砂糖を入れた餡入りが生まれたらしい。

わが家にも井桁の蒸籠がある。圧力釜・餅つき機の普及で永遠の冬眠に入っているようだ。近所のものもみな同様だろう。


銭は鳥目ともいい、近代以前に使用された貨幣である。主に円形で中央に穴のある金属の鋳造貨幣で、わが国最初の官銭は七〇八年の和同開珎とされ、その後も作られはしたが、量産は出来ず、室町時代に中国明の永楽帝の時に鋳造された銅貨を大量に輸入し、これが江戸時代初期まで、わが国の標準的な貨幣として流通されていたのである。

大聖寺藩に前田利治が入封されたのが寛永十一年で、それから二年後の寛永十三年に、わが国でも良質の寛永通宝が鋳造されるようになり、それから二二四年間に大量の銭が鋳造された。

初めに鋳られたのは青銅一文銭で、のちに鉄や真鍮のものも造られ、やがて四文銭も鋳造されるようになった。金一両につき銭四貫文として通用するようになって、次第に悪質なものは駆除され、平成円滑になったという。

わが家にも紐で通した寛永通宝が戸袋の中に眠っている。一度日を当ててやろうか。


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千両箱には大判・小判・二分金・一分金のうちで、何を入れるかで箱にも大小あった。小さなものは五百両入りで、その他千両、二千両、五千両、壱万両入りなどがあったが、ならして千両箱といった。

箱は松や樫の木で作り、周りや真ん中に鉄の枠や帯金をし、把手と錠もついていた。中身ごとの重さは、一両小判入りの千両箱で、十七kg(四、五貫)であった。

北前船を造るのに、平均で千両かかったが、一航海で千両の商いがあったというから、二航海目からは儲けが出たことになる。

塩屋の某家で千両箱を見せてもらったが、時代劇で見るより素朴で頑丈だった。もし中に千両詰まっていたら簡単に持てるだろうか。時価に換算するとどれくらいになるのか。夢は膨らんで楽しくなってくる。

どこかの商店のショーウィンドにレプリカでもよい千両箱を積み、夢をプレゼントしてほしいものである。



膳には四足膳と箱膳があった。四足膳は嫁入り道具としても重要な位置を占め、実家の紋や女紋をほどこした漆塗りの豪華なものもあった。角切りの角膳は蝶足膳ともいわれた。四足膳には、猫脚膳・銀杏膳・宗和膳などがあり、これらは指物大工や木地屋が作った。丸い形のものや四角い形のものがあった。

家長が権限を持っていた時代は家長の主人だけは四足膳で、他の家族は箱膳が普通であった。また家長だけは一品よけいに添えて厚遇していたことなど、今の人には信じられないことだろう。

箱膳には蓋式のものと、抽出式のものがあり、その中に各自が使う茶碗・汁椀・小皿・箸が入れられた。これらは毎回洗わなかったのは清潔感が乏しかったためか。戦後、ちゃぶ台が出回るまでは、長く箱膳は食事時の王者を占めていた。今は古風な家の押入れの中で、二度と出番のない膳たちが、ひっそりと静まっていることだろう。



大八車は江戸で寛文の頃から始まった荷物運送用の二輪車で、大八という人が作ったともいい、また、八人の人力に代わる意から転じたともいわれている。

羽根に矢が二十一本の車輪と簀子(すのこ)張りの車台の前方に楫(かじ)があり、普通は引き手二〜三人に、後押し一〜二人で引いていた。明暦大火後江戸市中に普請が多く、木挽町あたりでは大八車の製造で繁栄したそうだ。ところが馬方・馬子たちは、この大八車の地車を憎み、大八の連中を人畜生(ちくしょう)と罵ったという。

ここ大聖寺では、明治・大正・昭和初期は絹織物が盛んで、工場、問屋、商店では荷物運搬のために大八車の行き交いは頻繁だった。家々の軒下に留めてある大八車は、雨の日などは子供達にとっての格好の遊び場であった。ここで手拭天下取りや尻取りごっこなどをよくした。大八車はトラック誕生までの庶民の生活を支える、運送の王者であった。

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細く削った骨組みに紙を貼って糸を結びつけて、風を利用して高く飛ばして遊ぶ玩具で、凧の字は国字である。「たこ」という呼び方は江戸時代に江戸から広まってもので、関西では「いか」といっていたそうだ。この凧はアジア・ヨーロッパで古くから作られていたが、そのルーツは中国とされる

凧には絵凧・字凧・奴凧がある。江戸に奴凧が誕生したのは安永年間で江戸の大火の後らしい。

天保の改革で水野忠邦が老中となり【凧奢侈(しゃし)禁止令】が出されたとある。また万延年間の正月は、江戸市中凧が凄まじく揚がったとも。しかし文明開化で凧揚げ場は終われ次第に衰微していった。

ここ大聖寺では、石堂山が手頃な凧揚げ場となり、老若男女が盛大に凧を揚げていた。私の少年時代も凧揚げが盛んで、自作の凧を屋根の上から揚げていたが、いつも八間道辺りから立派な大奴凧が遥か上空に揚がっていたことが心に強く残っている。

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タライは[手・洗い]の訳で、同じ意味を持った漢字の盥を当てている。水や湯を受ける円形の容器で、手足や顔を洗ったり、洗濯をするために用いた。盥は種類も多く、木・陶器・金属製などいろいろあり、形も円・角・耳付き・桶形などいろいろある。

鎌倉時代あたりから、盥は日常生活では洗面器として用い、朝起きて楊枝を使い口すすぎをし、手を洗う習慣が始まったという。それが近世になると、一般的に桶形で板を並べてタガでしめる盥が使われ、その形は次第に大きくなり、洗濯兼行水用の盥として庶民の必需品となっていった。「はんぞう」ともいわれたが、もともとはんぞうとは湯や水を注ぐ容器のことで、盥セットとして使われていたため、盥のことまではんぞうと誤伝されたのだろう。

わが家には、今もはんぞうと呼ばれた行水用盥が物置の上で、出番のない日々を寂しく送っている。

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達磨とは中国の禅宗の創始者といわれ、もともとインドのバラモンの出身で、六世紀初めに中国に渡り、各地で禅を教え自ら嵩山の少林寺で面壁九年の坐禅を行ったと伝えられている。

この達磨大使の座禅を真似て作った張子は、手足がなく紅衣をまとった姿で、そこを重くして倒れてもすぐ起き上がるように作られていたことから、商売繁盛・開運出世の縁起物とされ、最初に片目を入れておき、願い事が叶ったときにもう一方の目を書き込む風習が各地に根づいた。

東日本では特に年末から三月にかけて、縁起物に張子達磨を売る市が盛大に行われている。中でも中山道の宿場町として栄えた高崎市では福達磨の製造が盛んである。

石川県では金沢の郷土玩具としての「加賀起き上がり」は昭和三十年の年賀切手にも登場し今でも人気がある。わが家には久法寺より頂いたボケ封じの紅白達磨が棚の上に居られるのが嬉しい。

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引き出しのある収納具のことを箪笥といった。一般的には衣類が主であるが、小引き出しは生活のための小物が収納されていた。初めは小型だったが、必要に応じ次第に大きくなり、茶箪笥・整理箪笥・衣装箪笥ができた。多くは桐で、檜・欅・桜・杉・樅(もみ)などの白木で作られた。

昭和後期より建物の近代化が進み、大型の整理箪笥や洋服箪笥は少しづつその姿を消し、新しい建築の中では収納庫的な役割に変貌していった。しかし、畳が敷かれた日本間の一部に日本的情緒を秘めた箪笥が置かれることは、その部屋に風格が感じられるように思う。

元来箪笥は【兎園小説別集】によると、「龍をもてせし書籍なるべし」であったが、江戸時代に、女の子が生まれると同時に桐の木を植えて記念とし、成長の後、嫁入りするとき、これで箪笥や長持を作り持参させる風習があった。今はそんな言葉すら聞かれなくなった。

桐の木よがんばれ!



蓄音機とは円盤レコードの溝に針を接触させ、録音した音を再生する装置で、回転台・ピックアップ・サウンドボックスからなり、一八七七年にエジソンが発明したものである。

わが国では、一九二七年(昭和二年)、五月にポリドールが、九月にビクターが洋盤をプレスし、その翌三年にコロムビアが電気吹き込みによるレコードを製造し、同年ビクターの「波浮の港」(佐藤千夜子・藤原義江)が大ヒットした。そして次々送り出される楽しい曲で、蓄音機は庶民層にも普及していった。コロムビアは古賀メロディーが、ビクターでは音頭ものが大流行した。

わが家に蓄音機が購入されたのは昭和七年であり、父は義太夫を、母と私は歌謡曲により楽しいひと時を過ごしたものだ。

そのとき購入した「涙の渡り鳥」と「島の娘」の新曲は、小学三年生だったがよく歌った。今もその頃のSP盤たちは、書斎の片隅で出番の時を待っている。




つい最近まで、日本のほとんどの家庭では、卓袱台を囲んで、家族団欒をしながら食事する光景が普通だった。

卓袱台とは明治中頃から始まったもので、それまでは庶民は個人用の箱膳を用い、婚礼や正月には、漆塗りで格式高い蝶足膳や猫足膳等を使っていた。箱膳は最初、禅寺に使われていたが、一人分の食事をしまっておき、食べるとき蓋を裏返せば膳になるので、使用人の多い商家や農家に用いられるようになった。

膳とは中国語で食物、ご馳走、供物の意味で、ご飯を一ぜん・二ぜんと数えるのもここから来ているという。江戸時代には膳は食事代一般を指すようになり、さらに明治時代西洋文化が入って、洋風テーブルを真似た卓袱台の登場となったわけで、食事は小さな膳で黙々箸を動かすのではなく、大勢が食事を囲む明るい風景と変わり、自由日本の新しい姿が見られるようになったのである。



提灯は手に提げて持ち歩く行灯(あんどん)で、中に蝋燭を燈す道具である。

室町時代に中国から入ってきたようで、唐宋音で「ちょうちん」、日本では桃燈と書き、「ていとう」と読んでいた。わが国では実用として使われ始めたのは戦国時代の戦いからである。

はじめは籠提灯や箱提灯であったが、やがて畳むことができるようになった。上下に円形の箱があり、中間は紙張りの竹骨蛇腹でできていて、竹ひごを螺旋状に積み、下の箱に蝋燭を立て、つけたり消したりする時は、畳んで下の穴から操作をしていた。

畳めるようになったのは、わしが粘り強さを持っていたからである。種類は弓張り・馬上・高張り・小田原・岐阜提灯など用途に応じて工夫されていた。

わが町で提灯が大量に使われたのは、先の戦いで先勝の時と町に水道が敷かれた時で、それは壮大なパノラマ図であった。

今は祭礼にのみその風情を残しているとは少々寂しいことである。



衝立とは衝立障子の略で、もともと土台の上に襖(ふすま)障子、板障子などを立てて屏障するものである。普通、屏風というと折れ曲がったものと思うが、中国では衝立も屏風というそうだ。

「ついたて」とは突き立てという日本語から生まれた言葉である。日本の古い衝立は莚(むしろ)や菰(こも)を張っていた。現在のような衝立となったのは平安時代の貴族住宅の家具として用いられてからだという。

衝立には布・絹・紙を貼り、周囲に縁取りをし、布には墨絵を、絹・紙には彩色絵を描いた。

そして近代になって、一般家庭でも衝立を住居の中に取り入れ、木・竹管などをいろいろのデザインをすることで、使用層がどんどん広がっていったのである。

わが家でも、玄関四畳間には先祖より伝わった衝立が、郷土の画家や文人の色紙・短冊の混ぜ貼りの装いで静かにお客様待ちをしている。



昭和中期までどこの家にも火鉢があり、火鉢には五徳がかかり、鉄瓶が座り、赤々とした炭火で湯がチンチン沸いていた。

鉄瓶は江戸時代に広まったもので、岩手県南部が産地である。近隣の山から産出される鉄鉱石(きめ細かい川砂)と粘土を混ぜ合わせて、木製の鋳型の中へ入れ固めて作った。

鉄瓶には独特の文様として、霰(あられ)・霙(みぞれ)花鳥風月の意匠を、ヘラで外型の内側に手彫りしていた。完成までに八十二工程程もあり、熟練した職人の技の世界であった。

鉄瓶で沸かした湯が旨いのは、鉄は水中の塩素などの不純物を吸い取るので味がまろやかになるのだという。鉄瓶の賢い持ち主は、鉄瓶で小豆を煮たり、お茶を沸かし錆止めをしていた。

わが家でも、父は茶ガラを布巾に包み、拭いて光沢を出していたが、茶の渋(タンニン)が錆を抑えていたのだ。使われていない鉄瓶もときどき出して手入れをしてやるべきだろう。



昭和期、町の民家の軒下で茣蓙を敷いて、包丁研ぎをしている風情をよく目にした。近所から集めてきた包丁や鋏を前に並べ、左に小さなべケツに水を入れたのを、右に色の違う砥石を三つ四つ置き、正面には濡れ雑巾を敷いて、取り出した砥石の上で包丁を研ぐのだが、押したり引いたり、シャリシャリとまことにリズミカルで、その見事な手元を飽かずに眺めていた。

砥石には荒砥・中砥・仕上砥の三種があり、荒砥は大村砥・伊与砥がよく、中砥は青砥・沼田砥が、そして仕上砥では本山砥がよいという。その砥石全体を研ぐには名倉砥があると、金物屋さんからお聞きした。今ではこのような名砥石は仕入れできないそうだ。

それでも大型店には数種の砥石が置いてあり、家庭での包丁を研ぐにはこと欠かないようだ。町内に研ぎ屋さんは見かけなくなったから、研ぎの主役は亭主になりそうな気がする。



昭和十九年、すでに戦争は破局に近く、金属類は貴卑を問わず悉く(ことごとく)軍需物資に動員され、貨幣製造にも事欠くようになってきた。そこでドイツの先例を参考に金属に代わる代用品の検討がされ、粘土と長石を原料とする貨幣の製造がはじまった。

製造方法や設備など初経験なので、京都・有田で焼物経験者による試作陶貨が作られた。当地九谷の陶工もこれに参画した。

図柄は素材の関係で、菊紋・稲穂桐とし、上下に国名と年号を配し、十銭・五銭・一銭の三種の貨幣製造が開始された。技術、焼成ともに困難を極めたが、苦労の末、やっと一千万枚を完成し、発行しようとしていたところ、終戦の大詔が下り、全てが水泡となり、陶貨は粉砕廃棄されてしまい、わずかな枚数が博物館と数寄者に残るのみとなった。

私の手元にある陶貨もその一枚である。どうか二度と『陶器製貨幣を手にすることのないように』と、祈らずにはおられない。





枕は人類が地球上に存在するようになって以来、私達にとって身近な生活必需品として毎日使われている。それぞれの時代の風俗・習慣・国や民族や職業等の違いにより、その作りや材料の多種多様である。最近は機能の科学的な研究も進んでいるようだ。

私が用いている枕は普通のソバがら枕であるが、少し前までは籾(もみ)がら枕を用いていた。その頃の母は、箱枕を用いていた。箱枕には安土型の平底と、曲がりをつけ寝返りをしやすくした船底型がある。夏の昼寝用としては藤や竹を材料とした網目枕を用いる。その材料によって、木枕・藺草(いぐさ)枕・石枕もある。

我が家にある枕で珍品中の珍品は陶枕で、これは山中の奥のほうから譲っていただいた九谷の原石で作られた陶器製のものである。昭和初期に求めに応じて造られたものだという。

今も中国では陶枕を製造しているそうだ。入手して比べてみたいものである



富札は古くは室町時代にすでにあったが、江戸時代に盛んになり富突といい、江戸・京都・大阪の三都で寺社の修理や再建などに富札興行が行われた。

抽選当日は境内に桟敷を設け、興行世話人と寺社奉行の検使立会いで、目隠しをした僧が錐(きり)で櫃(ひつ)の中の木札を突き刺し、これに見合う紙の富札があたりくじとなった。

富札の値段は銀一匁五分〜二匁くらいのものが多かった。これは現在でいえば三千円ぐらいか。京都の興行では最高金百両のもあり、あまりに庶民の射倖心をあおるということで一時禁止された。

しかし慶応ごろ再び盛んになり、明治六年と十五年に禁止布告が出されている。

私の手元にあるのは慶応三年丁卯、月、大聖寺於神明宮内九百二十九番のものである。外れだったのであろう。年末ジャンボ宝くじと同じようなもので、当時の人々の心が偲ばれ興味が尽きない。





地方農村漁村の囲炉裏のように都市の家庭生活に欠かせないものに長火鉢がある。欅や楢で作ったものが多く、右側に三〜四団の引き出しを設け、その上に猫板を置いた。灰を入れる「落とし」には銅板を用い、その中に灰を入れ、五徳を置いた。ここでは木炭か炭団(たどん)によって火が起こされ、湯沸かしとともに暖房用として用いた。長火鉢は食事をするとき、茶の間の主座を占め、常に主人の横に座していた。

長火鉢があることで、主人にも格がつき、部屋にも重みが備わった。陰役の五徳とその上に置かれた鉄瓶は、日本家屋に安らぎと潤いを与えた。

私も少年期、その場にいつ座れるのやらと思い、ようやく座れる順が来たときは、長火鉢はその存在感を失い、台所の片隅に追いやられ、物置台に成り果てていた。愛着はあるものの、まだ復帰の時期ではなさそうだ。部屋の調度品の置き換えをして、その座を作ろうかと思う昨今である。






衣類などを入れる蓋付長方形の大箱である。長櫃(ながひつ)が正式名で中程度の長さのものを中持、長いものを長持といった。脚のついたものを唐櫃(からひつ)といい、脚のないものは大和櫃といったが、室町時代以降は唐櫃はすたれ、もっぱら大和櫃が使われた。長さは150〜160cmのものが普通で、これに竿をお通して担いだことから長棹という土地のあった。

長持には漆塗り・蒔絵・定紋入りなど色々あり、昭和時代までは一般的に箪笥と共に嫁入り道具の一つとされていた。ときには江戸時代、底に車をつけ移動に便利にする型の車長持というのもあった。しかし持ち運びが不便であったため、その姿は次第に消え、手軽さから行李類が主座を占めるようになった。そしてさらに、家にあった収納具型が出てきた。

わが家の道具部屋には相変わらず黒塗の長持ちがその地位を占め、歴史を今に伝えている。




錦絵とは明和二年(一七六五)絵師の鈴木春信を中心に、彫師や摺師が協力して創始した錦の絵のように精緻(せいち)で美しい多色刷りの版画のことで、江戸の庶民層を基盤とし、その風俗(特に遊里関係)・歌舞伎芝居の役者・相撲絵などが好んで描かれ、浮世絵・江戸絵ともいわれ一世を風靡した。

これには肉筆画と木版画があり、歌麿・広重・北斎が特に有名で、西洋近代絵画の印象派に与えた影響が大きかった。

明治の初期には写真技術も未発達でそれほど普及もしなかったためか、歴史図鑑などには競って、事件や歴史の裏付け錦絵が採用されていた。西南戦争・日清日露の戦争物や帝国議会・蒸気機関車・気球打ち上げ・鹿鳴館風景など、明治維新を象徴する風物が、赤を基調とした独特の構図で描かれ人気があった。

昭和期、当地ではあまり入手できないため、友人と隣県や京まで求め歩いたのも楽しい思い出のひとこまとなっている。





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