糠とは玄米を漂白する際に、果皮・種皮などが破けて粉になったもので、「米ぬか」とか「こんか」ともいい、牛馬の飼料としたり、田畠の肥料とする。

また塩を混ぜて野菜や魚を漬けたものを糠味噌漬けという。つまり糠に塩と水を混ぜ合わせて発酵させたものである。湯浴みするとき糠を布袋に入れて肌を洗うと、肌は滑らかにすべすべするので、石鹸やボディソープが普及するまではよく用いられていた。糠に糠油を含み、緑黄または黒褐色で、石鹸づくりの材料にもされていた。湯浴みにこの糠袋を用いていたことは、文化三年(一八〇六年)の「浮世風呂」にも出ているから、日本人とこんかの縁は深いらしい。糠喜びとは、当てが外れてがっくりの時使われる。

少年期、先頭に真新しい糠袋を持っていき、いたずらして破ったために、マンガ本が買ってあたらなかったことなどもあったっけ‥‥。




鎌倉時代、土佐光長の年中行事絵巻にすでに暖簾が描かれているから、そのルーツは古い。明治二十七年の時事新報によれば「暖簾」とは、日光を防ぎ、目隠しとして一般に用いられていたことがわかる。谷川士清の和訓栞にはダンレンとあった、中国の門簾(もんれん)にあたるとある。この場合の門とは鴨居(かもい)などを指し、そこに垂れたものをすべて簾といったらしい。とにかく壁・几帳などに垂らして風邪を防ぎ暖をとったので暖簾の文字を用いたのであろう。

暖簾を「のれん」と訓じたのは「だん・なん・のう・の」と、音転したためという。暖簾にあたるものに、帳臺(ちょうだい)・帷(とばり)・幔幕(まんまく)・几帳(きちょう)などがあるが、皆暖簾の一種で暖簾とともに変化させたものといえるようだ。

【 古暖簾 達磨の威厳に 支えられ  三五三 】

大聖寺の民家では、家の何処かに暖簾が垂られている。

大聖寺十二景暖簾よ! 健在であってほしい。





刷毛は「女の人の赤毛」が最高である。髪はカラスのぬれ羽色では一寸質が落ちた。人の髪の毛を藁灰の汁でアク抜きをして、梳櫛(そしつ)して糊漆で固め、適当な長さに切って、その上を檜の薄皮で包んで乾かし、乾いたらカンナで削って仕上げた。この刷毛で、下から上まで毛が入り、赤毛で薄く腰の強いものは上手で、黒毛か牛の尻尾を混ぜたものは中で、牛の尻尾だけのものは下となった。やはり刷毛の本命は女の人の髪の毛であった。

刷毛の語源は掃く(ハク)に言葉の毛がついたものだと。小学館では刷く(ハダク)の名詞化だという。

振毛や胴毛は腰がないので膠(にかわ)固めをし、毛もとは締め付けて抜けないようにした。刷毛の板材は檜がよいが、昔は狂わないため、古い民家の土蔵の梁や柱を素材に使ったという。

とにかく決め手は、銅線よりも女の人の髪の毛を縒ったものの方が強いということで、刷毛の毛縄つくりは冬の女の大事な仕事であった




文化文政時代、江戸の浮世絵氏が、錦絵を挿絵とした羽子板につけたところ持ち運びしやすいので大いに人気を得、江戸羽子板として発展した。その後、京都では内裏羽子板となり、挿絵師活躍とともに、花鳥・福神役者の羽子板が浅草の歳の市で売られるようになり、爆発的に全国に広がっていった。

この羽子板後は古くは「胡鬼板(こぎた)」といった。胡鬼とは植物のツクバネの別名であ胡鬼の子という黒く硬い実を突いて遊ぶことから、突いて遊ぶ板を胡鬼板といい、その実に羽根をつけるようになったという。

明治十三年生まれの父は歌舞伎通で、我が家にも国周の錦絵役者の羽子板があった。また正月には近所の仲間が紅白に分かれて羽根つき遊びをし、負けて顔に墨を塗られたことなども、甘苦い思い出の一齣である。

今一度正月飾りや正月遊びとして羽子板の復興を望むものである。



柱や壁に掛けた時計で、ぜんまい(発条)式であり、定期的にぜんまいを巻いて振り子を動かす幅で歯車を進め、音はカッチンカッチン聞こえ、ボーンボーンと時を刻む。一九六〇年以降ぜんまい式から乾電池式・電気式・水晶時計と変わり、今は電波時計が主力になりつつある。

時計には腕時計・目覚まし時計・置き時計など用途により多くの種類がある。一時は高級時計や懐中時計が幅を利かせたが、今はそれほどでもない。なにぶん百円ショップでも間に合うものがある時代となったので、その地位は下がったとも言えるか。

タイムイズマネー「時は金なり」。時の大切さは変わらないはずだ。

わが家に先代からある愛知の発条式時計は、なんとか次世代へも生き残らせたいものだと思う昨今である。




カルタは洋の別なく広く世界各地で行われている遊戯具で、その原形はインドで発明されたという。カルタとはポルトガル語をそのまま日本語としたもので、室町時代に船員が持ち込んだ七十五枚のウンスンカルタが最初といわれている。このカルタは日本に上陸すると、やがては花鳥風月を配した【花カルタ】に、また歌合わせにヒントを得て【百人一首】に、諺を生かした【いろはカルタ】などに工夫されたが、その中でも一番日本人の生活に適し、日本の四季と一体化したのが花カルタである。

わが国に暦法が移入され、暦が日常生活の中に強く位置づけられ、春夏秋冬に、梅・桜・藤・菖蒲・牡丹・萩・菊など四季折々の花とかかわる生活風物を十二ヶ月に配し、それぞれを点で取り合うというのは、面白くて風情がある。賭博気をさらりと捨てて、家族団欒の担い手としてぜひ復活させて欲しいものである。




馬につける鈴のことを馬鈴という。その鈴とは、中空の身の中が丸く固めた銅の鈴を封じた楽器・鳴物で身は球形で端に細い口(鈴口)を開けるのが一般的である。他に扁平なものや多角形のものもあり、殆どは金属製だが、土や木でも作られる。中には吊り下げるために、舌のようなものをつけた物もある。

馬鈴は馬具の一種として飼っている犬や鷹にもつけた。鈴をつけることで、その位置を知らせることが出来、また動きにも華やかさが加えられた。さらに馬鈴は蛇などの害獣から守る力があるとも信じられていた。南部馬の首に吊るした鈴の音から「ちゃらちゃら馬こ」の祭礼が伝承されているのもその意が分かる。この考え方から、人も身体に鈴をつけたり、振ったりするようになったのだろう。

大聖寺の古物商にもよく馬鈴があった。私も中町で入手し、鯖街道や木曽路でも求め、ときどき出してその音色を楽しんでいる。




藩札とは江戸時代に諸藩が発行した紙幣で、最初の藩札は寛文元年(一六六一年)越前の福井藩で発行した銀札であった。

明治四年の調査によると、全国諸藩の八〇%(二二四藩)が藩札を発行していた。藩札には金札・銀札・銭札があり、なかでも銀札が最も多かった。

この藩札とは、幕府貨幣の不足を補い領内の通貨量を調整し、さらに藩財政の窮乏を打開することを目的としていて発行には幕府の許可が必要だった。使用期限も定められ、札元は領内の富商であることが多かった。藩札は幕府貨幣との兌換がたてまえとなっていたが、乱発で不換紙幣化する事態も起こっていたようだ。

明治新政府は廃藩置県のとき、藩札回収令を発行し、藩札を当時の現地相場で八ヶ年かかって回収したという。

大聖寺の初発行は元禄十四年、三代利直の頃であった。確認されているものが現在二十四種ある。




藩政時代八間道には時を知らせる時鐘があり、中町裏には火の見張り番をする火見櫓(やぐら)があった。

これらは昭和に入って次第にそに姿を変えていったが、福田橋河畔の梯子柱に吊るされた半鐘は、長い間火災通報専用としてその大任を立派に果たしていた。

火事が起こったとき、この半鐘は打ち鳴らされるわけだが、急緩(かん)によって打ち方に規則が定められていた。遠いところの火災では、一打して間をおき、また一打して緩(ゆる)く一つずつ打った。大火の兆しがあり、火消し人夫の出動が必要なときは、二打ずつ打ち、人夫を促した。近火には一打を極めて急繁に打った。また、町内及び隣町の火災では撞木(どうぼく)も打たれた。

半鐘とは、小型の釣り鐘のことで、寺院や陣営で仲間の合図用として使われていたものだが、いつしか火災通報用となった。半鐘は城下町の風情を醸し出すひとつでもあったのに壊滅したのは寂しいことである。


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盤双六(ばんすごろく)

室内遊戯の中で最も古いものは盤双六である。奈良時代以前に中国から伝来したもので、盤と駒石と骰子(さいころ)と筒の一式からなる。平安時代の源氏物語・枕草子に見えるように、貴族の室内遊戯として、盛んに行われていたが、鎌倉時代に入ると諸事のひとつになったため、しばしば禁止令が出された。江戸時代には、この盤双六は有閑階級のみの遊戯となり、明治以降は数寄者によって細々と継承されるようになり、現在は廃絶になったといってよかろう。

その盤は紫檀(したん)・黒檀・黒柿・を用い精巧な木画を嵌入れているものもある。付属する石も瑪瑙(めのう)・水晶・石榴石などいろいろで、筒には金・銀・蒔絵をほどこし、贅を尽くしたいた。昭和期一時、碁・将棋・麻雀と同じくその遊び方のテキストも発売されたが、定着はしなかった。

わが家にあるのは、金沢の休暇から出た黒柿の盤で、この盤では「やなぎと追い回し」しかしたことがない。


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半 纏(はんてん)

半纏は半天とも書き、小袖の上に羽織って着る丈の短い羽織で、普通は袖がなく、脇下にヒダがあったり、衿に(えり)に折り返しはあるが、マチがなかった。また衿には胸紐も付けられず、少々窮屈なので、窮屈羽織とも言っていた。

江戸時代の文化年間から庶民の略服として着られるようになり、羽織を着られなかった女子や農山村の人々にとってよい仕事着となった。

普通は木綿で作り、大工・左官などの職人は苗字・屋号・紋所を染め抜いた印半纏を仕事着としていた。特に丈の短いのを蝙蝠(こうもり)半纏といい、たび商人や飛脚が多く用いた。

子守用に使う場合は半纏に紐を付け、ねんねこ半纏といった。一般の家庭では防寒用の綿入り半纏として愛用されていた。

私も半纏愛用者の一人であり、帰宅後は和服半纏姿に変身し、就寝時は半纏を掛け布団の下へ反対着にして、両肩へ袖部を掛けて寝ていた。気温零度でも安眠ができた。


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肥後守(ひごのかみ)

かつての男の子はみんな肥後守ナイフを持っていた。肥後守一本で鉛筆を削り、竹トンボや水鉄砲などすべての竹細工をこなしていた。そしれ時には蛙や蛇などの解剖もやっていた。

肥後守は刃物を折りたためるため、安全であり機能も優れ、切れ味も良かったので子供たちから絶大な人気があった。「肥後隆義」の銘が入ったのは昭和十三年頃で、普通は一本一円四十銭だった。しかし安いものは七十銭でもあった。その頃の少年はみな刃物を研ぐことは知っており、それぞれ研いでは切れ味を自慢しあっていた。その生産地は兵庫県の三木であり、「肥後守」の銘は原産地への敬意のためらしい。肥後守は刃物の安定はもとより、使用時親指で押さえることで安定度は高まり作業もはかどった。

現在子供の世界から、肥後守の持参は危険だとして消えてしまったが、最近アウトドアでまた見直されているようだ。安全・健全を望みたい。


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鐚 銭(びたせん)

「ビタ一文やるのは惜しい」というビタとは、昔の貨幣単位の文(もん)から生まれた言葉で、滅多‥‥めった・磨り減ったが、その語源であり、漢字で書くと鐚銭となる

この言葉の出来た室町時代は、それ以前に鋳造された外来銭に、私鋳銭が混用していたため、これらの銭は長年使っているうちに銭面の文字が消えてしまったり、目方が少なくなってしまったりして、良貨に悪貨が入り込み適用されるようになっていた。

そこへ、当時交易していた中国の明から立派な銅銭「永楽通宝」が渡ってきた。同じ一文でも大きな差が生じ、鐚銭四枚で良質の一文と交換されるようになった。こうしたことから「ビタ一文」と言えば低い価値のものとしてのイメージの言葉となったのである。

わが家にも、古物商から求めた紐通しの数珠状の銭が、戸袋の中に眠っている。中には鐚銭もあろう。じっくり鑑定してみたいものである。


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火熨斗(ひのし)

火熨斗は炭火の熱気により布の皺(しわ)を伸すのに使用した底の滑らかな金属製の器具で、現在の電気アイロンの前のものである。

これには柄勺型と軍艦型の二種があった。まず炭に火をつけるため、藻に焼きの網の上に炭を置き、ガスレンジのバーナーの火を直に当てるのだが、この炭は備中炭が一番いい。中火にすると下の方から赤くなり始め、青白い炎と共にパラパラッと火の粉が舞い上がる。この真っ赤な部分と、真っ黒の周辺にゆらめく青い火と、時々上がる火の粉はまことに神秘的なものである。

赤くなった炭を火熨斗に入れ用意した布に押し付け、皺を伸ばすのだが、炭の火力がどんどん減少していくので、再度炭火をおこさねばならず、布の皺伸ばしも大変な仕事であった。この時の火熨斗をかけ損なって皺を作ることを「火熨斗摺り」といった。こんなカッターシャツを着るのは嫌であった。


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火 鉢(ひばち)

火鉢は昭和中期まで部屋の主客であり、暖房具ではあるが餅を焼いたり、湯を沸かしたり、燗(かん)をつけたりするキッチンの出張所であった。炭が起こり、香が立ち、やがて灰になる自然現象は、火の大切さや恐ろしさを教える場でもあった。陶器の火鉢は有田焼を祖とし、信楽・三河・常滑・九谷と、それぞれ地場の特色を示しながら火桶に変わって近代日本を支えていた。

しかし昭和三十年代を境に石油が台頭するに従い生活様式にも変化が起こり、火鉢の需要に衰微がみえ始め、最後に残った手あぶり形も昭和四十年代に入ると、急カーブで家庭生活から締め出されていった。

され、火鉢は買ったとき、灰をいっぱい入れると、起こったとき割れたり床を焦がしたりする恐れがある。そのため底の方に小砂利と砂を入れ、その上に木灰を入れるとよいという。生活の知恵である。火鉢は人間の絆を深める場作りの主人公であった。


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百人一首(ひゃくにんいっしゅ)

百人一首の歌は、勅撰の第一集から第十集までに選入された歌から採られた歌で、古今・千載・新古今・後拾遺・拾遺集が主であった。選者は藤原定家で「小倉山庄色紙和歌」の写本として伝わったものである。

カルタとなったのは室町時代で、当時のお公家さんが、この歌を上の句の元歌より、下の句の極り札を取るやり方で遊んだのが始まりとされる。江戸時代は徳川大奥より諸大名に広がり、やがて町家では丁稚・小僧の手習いの手本としても取り入れられた。

明治になって、ポルトガルのカルタに似ていることから、歌留多と名付けられ、広く一般家庭にも広がるようになった。遊び方には散らし取りと源平合戦方式がある。

大正より昭和期にかけての大聖寺では、お正月遊びの中心となっていた。私にとって、百人一首は青春の凝縮されたものであり、今も二種類の百人一首セットが、今の片袖で私の友となっている。


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拍子木(ひょうしぎ)

拍子木のことを、歌舞伎の世界では【坼(たく)】という。合図または警戒のために打ち合わせて鳴らす二本の角材のことで、もともと歌舞伎進行の重要な狂言方の道具で、舞台が生きるのも死ぬのも坼一つで決まるとまで言われた。

登場人物の動作や役者が切る見得などを誇張して表現する効果音で、この坼のことを「ツケ」とも言った。開幕までの進行の全ては、この坼の音が機械のように告げていた。それは舞台始めの予告で、出演者一同に準備委の進行を促し、やがて十五分前に「二丁」の坼が鳴る。すると衣装着付け・化粧・楽屋の大道具方・音楽の各部署の準備が着々と進む。ついで分前になると、楽屋から舞台を坼の音が廻る。そして舞台準備が整い、役者は舞台に向かう。ここで「廻り八丁」が鳴り、開幕となる。

当地では、坼と言わず拍子木といい、戦時中は夜回りにもよく使われた。

わが家の拍子木は今も健在で、玄関横でのんびり番をしている。


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吹 子(ふいご)

日本では昔から金属の精錬を[金を吹く]と呼び慣わしていた。

牛・馬・狸・鹿などの皮を縫い合わせて皮袋を作り、空気を詰めるのだが、この袋を[ふきかわ][ふいがう]といった。[ふいご]とはこれが縮まった言葉である。

炭を燃焼させて原料の鉱石を溶かし、金属を得るために送風、つまり多量の空気(酸素)を送るために、団扇や火吹竹に替わって考案されたものが吹子である。小型皮袋で固定せずに自由に操作するアコーディオン式の手吹子や板の中央を支点とし両端を力点とする踏み吹子もあったが、後に特別の箱吹子が開発され、高圧多量の送風で酸素供給が増大できるようになった。

昭和初期、私の町内に鍛冶屋が二軒あった。独特の仕事場で真っ赤に燃える炉を前に、左手に修理鉄火刃をヤットコで挟み、右手で鎚を持ち振り上げ、左足で吹子を微妙に操作される姿が、今も脳裏に焼き付いている。


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風 鈴(ふうりん)

風鈴とは小さい吊鐘の形をした金属製・陶器製・ガラス製の鈴状の中に、風受けの羽や短冊をつけた舌が下がっており、軒下に吊るしておくと、風が吹くことで、舌の下の鐘が内側を打って快い音を発する。古い中国の書には鉄馬・風琴・風箒などの名がある。わが国では室町時代から家具として普及してきた。特に江戸時代になると、風鈴売りが涼しげな音を運んでくれるので、虫売りや金魚売りと共に、夏の風物詩として人々に親しまれるようになってきた。俳諧では夏の代表的な季語となっている。風鈴造りは南部鉄瓶で有名な盛岡が主産地だといわれている。

わが家にも南部製の風鈴がある。内庭の軒に夏になるとは、その舌に好きな俳句など書いて吊るすのだが、その音を聞くとは、在りし日の亡き母の顔が浮かんでくる。

風鈴は日除け簾や周り灯籠と共に、日本家屋の夏の重要ポイントとなっているようだ。


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福 助(ふくすけ)

福助とはちょんまげを結い、裃を着けて座った縁起人形で、とりわけ頭の大きいのが特徴である。

江戸時代後期の一八〇二年(享和二年)長寿で死んだ摂州西成郡の百姓左五衛門の子佐太郎は、身長二尺にみたない大頭の小人だったが、実に幸運な生涯を送ったことから、その姿を写して、福徳招来の縁起物として、江戸では今戸焼により、上方では深草焼で売り出したところ大受けをするようになったという。

額の生え際は青く、眉は優しく垂れ下がり、口はオチョボで耳は福耳となり大きく、紫の裃を着け羽織の紋は各福で、その手が胸辺りにチョコンと出ている風情はまことに愛らしい。その人形を店の棚に飾ったところ招福万来、商売が大繁盛したという。

この福助にあやかった商標の「福助足袋」も大売れした。福助踊りというのは、かぼちゃ節に合わせて踊る滑稽な座敷踊りだったというが、一度じっくり見たいものである。


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風呂敷(ふろしき)

風呂敷は日本独特の包み文化が作り上げた正方形の裂地(きれじ)でえ、物の大小にかかわらず包むことができ、畳めば小さく収納するのに便利であり、平安時代は平包といったが、風呂敷の名になったのは、江戸時代、入浴のさい濡れ物や風呂道具などいっさいを包んだためという。四角な物は「使い包み」で、長い物は「二つ包み」西瓜のような球形の物は「西瓜結び」といった。

何れも美意識・生活の知恵で生み出されたものである。船員バックや信玄袋はその特殊な物といえよう。江戸時代中期になると、浴衣着で蒸し風呂風情はなくなり、脱衣籠や棚が出現し、本来の風呂敷用途は少なくなった。そして後期から唐草模様更紗(さらさ)が流行し、商家では大風呂敷も使われ、それに定紋や屋号を入れて、宣伝にも利用するようになった。この時代は火災も多く、半鐘が鳴ると人々は衣類を詰め込み、飛び出し逃げ出した。

風呂敷は財を守る友でもあった。


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箒と箕(ほうきとみ)

箒と箕は、現在では単なる掃除用具としか考えていないが、これらはもとは聖なる用具であった。だから、謡曲「高砂」の「尉(じょう)と姥(うば)」の掛軸に欠かすことのできないものとなり、尉は杷(さらい)を持ち、姥は箒を持つ。共に霊魂をっ気集める呪具(じゅぐ)となっている。

人間は「お前百までわしゃ九十九まで」と霊魂をかき集め、生命力を永らえ、長生きすることを願望しているので、昔は正月に「日の出」や「鶴」と同じくらいめでたいものとし、また人の四十二、六十一、八十などの縁年には必ずこの絵を座敷にかけたのである。箒は掻き集める用具ではあるが、これを逆さに立てると、神霊降臨の依託(いたく)あることから、様々な信仰が起こり、長居の客の退去願いとしても使った。箕は穀物を掬(すく)う用具だから、霊魂の器と考え、縁起物として姿を変え祀(まつ)られている。

お互いに、箒と箕を今一度考え直してみたいものだ。


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法螺貝(ほらがい)

法螺貝は合図や通信の働きをする音響具である。ホラガイとはフジツカイ科の大型巻貝で、生きた貝を採って中身を抜き、細く尖った殻頂部を切って口金をつけ、吹き鳴らすように作ったもので、空海が中国から持ち帰ったとされている。

これを密教の法具として修験道の山伏が用いたのが始まりだが、平安時代末期から、軍陣にも流用され、陣貝と呼ばれるようになり、いろいろ調子を吹き分けて軍事行動の号令を表すようになったので、軍を指揮する総大将の脇に控える重要な役となった。

山伏も吹き方や吹く回数によって出入、案内、応答、説法などいろいろ違いがあるようだ。

一般通用語の「法螺吹き」とは事実を膨らませて大げさに言い立てることで、昔話の「法螺話」に登場する人物はおどけもので、周囲の人を幸せな気分にさせる性格をもっている。法螺貝の持つ霊力で、周囲を幸福にして欲しいものである。

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枡(ます)

ますが日本に渡ってきたのは仁徳天皇の頃で、木を掘り抜いて升としたことが、太田南畝(おおたなんぽ)の「半日閑話」という書物に出ている。それまでは、合・勺の名はあっても升はなく、米を片手ひと掬いすることが[勺]で、両手合わせて測ることを[合]といっていたそうだ。

こうした推移を見ると量器の制度はなかなか統一されず荘園で貢租(こうそ=年貢のこと)のとき大きなものは納升(おさめます)で、払うときは小さめの払升(はらいます)を使っていたらしい。秀吉時代に量制の統一に力を入れ、やっと家康時代に其の功が現れるようになった。京枡師が作った枡は「口広さ四寸九分・扶川二寸七分・代四匁三分也」と見え、江戸時代に江戸の檜屋藤左衛門が一手に司(つかさど)った。十合枡や五合枡ができたのは後世で、普通は二合五勺枡が用いられていた。これは一人一回分の食事量だった。(当時は朝夕二回の食事)。これが一人扶持五合で大人1日分の食料であった。

現在は一升が 一、八リットルの時代だが、今も私は米は【合】でしか判断できないひとりである。


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繭 玉(まゆだま)

繭玉は飾り花の一種で、米の粉を繭の形にして、榎(えのき)か柳の木に刺したもので、東日本ではよく見られた。また養蚕に関係の深い道具などと一緒に飾るところもあった。

繭玉という名称が付けられている通り、養蚕との関わりから生み出たもので、普通枝垂柳を使って穂の垂れる形に作り、稲の豊穣を表現した。

白山麓より当地に移住された伊藤常次郎宅へ、初冬の頃お伺いした際、長押に小さな餅を丸めて小枝に飾り花として飾られていたのを見たとき、日本の故郷へ来たような暖かさを感じた。

江沼の地でも養蚕が盛んな頃は、正月近くなると、普通の家でも縁起物として、競って繭玉を飾るようになった。昭和初期には、餅そのものよりも、紅・白に緑まで交えた師範の最中の皮で作られた繭玉を求め、それを柳枝に付けて神棚近くの適所に飾り躍らせたものである。

繭玉よ!日本の家庭においで。


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水 引(みずひき)

細いこよりに糊をひいて乾かし固めたもので、進物用の包み紙などを結ぶのに用いる。普通数本を合わせて、中央から色を染め分けている。吉事は赤と白(金と銀・金と赤)を、凶事には黒と白(銀と白)などと区別している。

この水引は室町時代の連歌師によって創られたもので、もともと連歌の懐紙を綴るために、風流好んで作られたもので『細き紅が乱れて水に引きかるるに似たり』ということで名付けられたものだ。

日本人は器用なので、水に似た銀と金で、水の代用品として作ったものが水引の起源だとされる。

現在の水引は五本が普通で、奇数は吉事、偶数は凶事に用い、いずれも濃い色が右に来るように結ぶ。結び方として,結び切りと蝶結びがある。結婚や弔い事は二度と繰り返さないという事で結び切りに結ぶ。蝶結びは略式だが、蝶は蚕の蛾の意で、絹を生産する縁起の良いことの象徴である。

よいことなら続けることにしようか。


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薬 研(やげん)

薬研は[くすりおろし]ともいい、薬のもととなる生薬を粉末にする道具で、中国の唐時代に発明されたもので、中国名では、薬碾(やくでん)といわれた。

薬研は細長い船形で、中がV字型に凹んだ長さ三十センチの臼と直径二十センチの鉄の車輪状の円盤に木の棒を差した摩り具を使って、薬種を押しつぶし粉にするもので、臼を「やげん」摩り具を「やげん車」といった。V字型の堀を「やげん堀」というのもここから出た言葉である。薬研には木製・鉄製・石製のものがあり、みなどっしりしている。

私の向かいの家は以前、漢方薬局でいつも薬研の音がしていた。薬剤師の爺さまが、玄関先の薬棚の前にどっかり座し、体の前に臼を縦に置き、スリクを前後に回転させながら薬種を粉にしておられた。「左右の手のいずれかを、やや前後にするのがコツだ。」との言葉が今も耳に残っている。

古き良き時代であった。


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矢 立(やだて)

矢立とは武士が戦場で鎧のえびら(=矢を背負うもの)に入れ、持ち歩いた墨壺や筆を収めた容器のことで、一戦終え、首実検の披露をし、感状を書きとめるための筆記具として重要なものであった。源平合戦の時は、小型硯・筆・墨・畳紙を、えびらや空穂(うつぼ=矢を入れる筒)の底に入れて用いていたことが記録にも残されている。

この矢立は江戸時代になると、庶民の間にも広く普及し、明治時代に万年筆が出るまでは、旅行の必需品となった。種類は大名矢立、町人、札さし、八百屋ものなど各種あり、その材料は唐木・金・銀・銅・四分一や牙・骨・陶磁器などで作られ、実用品であったものが次第に趣味的なものへと変わっていった。そして木製のものには蒔絵を、金属製のものには金銀の細工をした手の込んだものが出回るようになった。

わが家にも矢立が三本ある。いずれも十八センチ内外のもので、当時の生活の味が染みついているようだ。



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柳行李(やなぎこうり)

柳行李とは柳のしなやかで長い細枝を麻糸で編んで箱状に仕立てたものである。柳といっても池の辺りに垂れ下がった幽霊のあしらいになる川ばた柳では作れない。

五十余種ある柳の中で、柳行李とするのは「かわやなぎ」正式でいう杞柳(きりゅう)である。川ばた柳は上から垂れるのに対し、

杞柳は下から上へ枝が伸びている。

これは桑の生え方に似ている。一枝から数十本三メートルほど伸び、小枝別れがないので、その密集地は笹薮や芦原のようだ。兵庫県の豊岡が特産地で、戦時中軍用行李を多く供給していた。

柳行李は軽く丈夫で、弾力性があり、かぶせ蓋がついている。

現在は岐阜県で細々と柳行李は作られているとか。若い人はレトロではなく新製品と受け止めている。

わが家では、今も柳行李は健在で、冬物オーバーなどの、よき収納庫となっている。柳行李よ進出せよ!


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行 平(ゆきひら)

行平とは、取っ手と注ぎ口がついた小型の蓋つきの土鍋である。

厚手に作られているので冷めにくいため、ゆっくり煮る粥などに最適な台所道具である。

生まれたのは十八世紀末らしく、行平鍋という粋な名は、在原業平の兄が須磨で海女に塩を焼かせた故事からつけられたという説もあるが怪しいものだ。おそらく行火(あんか)・行灯(あんどん)と同じように持ち運びしやすいことから付けられた名のようだ。それまでは鍋は普通、弦(つる)が耳だけにつき取っ手などない平鍋だったが、持ち運びが便利なように工夫され、行平が生まれたのだが、呼び方がアンでは釣り合いが悪いので、ユキと粋によんだらしい。

ともあれ飯も炊け、汁も注げ、そのまま茶碗代わりにもなるので、どんどん生活の中に入り込むようになってきた。

台所の近代化が進み、その道具類も変容を示している中で、やはり行平は、同じ姿で、病む人の重湯(おもゆ)づくりには欠かせない使命を持ち続けている。



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ランプ

江戸時代の照明器具は行灯(あんどん)が主であったが、やがて蝋燭(ろうそく)も使われるようになった。しかし萬延元年に幕府の遣米使節の新見正興等と随行した人が、アメリカ土産として林洞海に贈ったのが新型のランプであったという。

それから横浜で用いられるようになり、明治に入り需要も増え、六年頃には全国に普及していった。その年の東京日日新聞には、便利なもので、裏屋住宅でも用いられるようになったが、[口金が取れると困ったこと]などと書かれ、また[紙張り行灯は益々衰えランプ日々盛んなり]とも書かれる。和製より洋製を愛したことがわかる。

私も子供の頃、近所のランプ屋さんに並んだモダンなランプを見て「さぞ高価なのだろう」と羨ましく見ていたことが思い出される。

十二月の大晦日はランプのホヤ磨きするのが私の勤めであった。割らないように煤取りをしたことなど懐かしい思い出として残っている。


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和 傘(わがさ)

傘は笠に長い柄をつけて用いたことから始まったもので、初期の長柄傘には木綿や絹を貼ったのが、その後朱塗りに変わったという。

元禄以降は蛇の目が主流となり、その他大黒屋傘・紅葉傘・日和傘なども作られるようになった。この中で、大黒屋傘は大阪の製造元の屋号を取った名称だが、一般には番傘で知られるようになった。傘骨が粗く紙が厚く実用的で、店の屋号や番号が入れられ広く普及していった。

日和傘は表は白紙で裏に紺紙を重ねたもので、京・大阪で流行した。

蛇の目は傘の表に三重の輪を描いた目玉模様があり、中央と周りに渋を塗り、ベンガラで色づけしたものもあった。

傘つくりは仕上げまでに十三の工程があり、幕末の貧乏侍のよき内職となっていた。

雨の多い城下町の家並みに似合う和傘。傘打つ雨音を聞きながら一人歩きもよく、方を触れ合いながら相合い傘で歩くのは、それ以上に風情があった。


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和 紙(わし)

鳥の子という紙は雁皮(がんぴ)を原料とした和紙で、紙の色が鳥の卵の殻に似ているのでこの名がついた。奈良時代の斐紙(ひしー雁皮紙の古名)と呼ばれる伝統を受け継いだ上質の紙であり、越前・阿波が主生産地であった。その繊維は均一で美しい光沢があり、特に室町末期の知識人や、渡来宣教師に愛用された。

現在は三椏(みつまた)を代用した鳥の子を製造する技術が進み、証券・辞令・美術書に使用されている。前述の斐紙とは沈丁花科の植物で、【白皮と呼ばれる靭皮(じんぴ)繊維】を主原料として漉かれた和紙で[正倉院文書]はこの斐紙が中心だという。

江戸時代はもとより明治・大正から昭和の初期まで、家々を紙屑回収車がまわり、反故となった紙を集めていったのは、その紙の質が純粋で、あまり変質しなかったためである。世界の図書修復には、日本の和紙が今も使われている。

わが家にも父以来の和本がかなり残されている。歴史の重みを次世代に伝えたいと思うこの頃である。


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和磁石(わじしゃく)

磁石は中国から伝わってきたもので、気を刳り貫いて盤の中に十二支方位を入れた日本人の知恵である。方位を定めるには磁石盤を用いるわけだが、磁針は乗せる受け針の針先をなまらないようにと、磁針をはずしておき、必要な時に乗せる方法をとった。これが「方位を立てる」の語源になったという。

方位は東西南北の四方位が基本で、これに十二支の子(ね)を北にあて、右回り三十度間隔にそれぞれ丑・寅‥と配置した。南は午となり、南北線が子午線となった。

もともと磁石盤(羅針盤)は船舶・航空機が装置するものだが、登山やアウトドアに見直しされている。

わたしの家にも磁石がある。一個は山歩き用の現代ものだが、二個は和磁石である。小型は道具屋さんより、中型は瀬越の知人から入手したものである。江戸時代職人の風格が感じられ、また水夫(かこ)達の雄々しい魂が宿っているように思われてならない。


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和包丁(わぼうちょう)


包丁には、洋包丁と和包丁がある。洋包丁は 鋼(はがね)だけでできているのに対し、和包丁は本体を軟鉄で作り刃の部分だけに鋼をつけた「合わせ包丁」である。鋼は焼入れをすると硬くなるのに対し、軟鉄は焼入れはできないという。

和包丁は普通片側だけを削り込んだ片刃が基本で、刃先は硬くて魚や鶏肉のお身をおろす時に使う出刃は、重みがあり骨でも切れる。派渡り五寸のものが一般的であり、魚を刺し身にひくときは柳刃を使う。その名の通り細身で刃渡り八寸が標準で、野菜の調理には菜切を使う。刃は水平で幅が広く、嵩のある野菜を切ったり皮を剥(は)いだりする。その他薄刃や峰もあるが、、普通は前述の三種がそれぞれの家庭で使われているようだ。

隣県の武生市は刃物の生産地で、名のある名工も多い。私も先年縁あって名工とお会いでき、手ずからの作品を求めることができた。末長く愛用したいものである。

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椀(わん)

椀とは汁や飯を盛る食器で、陶磁器のものは碗を、木製のものは椀の字をあてた。しかしのち飯用の陶磁器製のものは茶碗と呼ばれるようになった。歴史的には土器製が始めらしいが、木工の発達で、木の温もりで椀が作られるようになり、平安時代に漆塗り技術が生まれ、木製の漆塗りを施したものが椀の主流となった。椀は普通は味噌汁に使うものと吸い物や汁粉椀用などがある。

とにかく椀は木製のため、断熱性が高くて直接熱を唇に感じさせないから、熱を楽しみながら味わうことが出来、又汁物は冷めにくいという利点がある。しかしその反面剥げるという欠点があり、それを避けるために幾度も塗り重ねをし、満足感は増したが高価についたようだ。

昭和期よりプラスチックが、椀を乗っ取った感あったが、日本人の家庭の日本料理にはやはり木製で漆塗りがよいと、見つめ直されている。


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※「城下町の風物譚」は、
平成九年から「加賀便り」に連載され、平成二十九年に発刊した手作りの冊子です。


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