「大聖寺の建物談義」は、平成五年から九年にかけて、げんば堂の栞「加賀便り」に連載された 加賀市大聖寺在住の河崎敏夫氏のエッセイをまとめ、平成十四年に発刊した手作りの和本です。明治〜昭和期にかけての 「城下町・大聖寺」の人びとの暮らしが 建物を通して伝わってくるかと思います。是非、御一読ください
※ 写真は平成十四年当時、大聖寺を廻り撮影させていただきました。
天 窓 (てんまど)
わが家の梁組の上に天窓がある。夜空に白い雲が月光を受け、輝きながら流れていくのが見える。また氷雨が霰に変わったことは、ガラスを叩く音の変化ですぐに察知できる。雪降ればボタン雪などお伽の世界にいるようだ。
もともと天窓は月見・雪見のために造られたものではなく、囲炉裏からあがる煙を外部に逃がすためのものであったのが、いつしか下の部屋へ明かりを採るための装置に変貌して行った。
ガラスのない頃は、この天窓も屋根の上へ鎌首のように囲いが上げられていたもので、冬は暖かさも逃げるし吹雪になると雪だって入り込んできた。さしこむ光もほのかなものだったに違いない。後世になると、天窓も高窓造りとなり、下から紐で操作もできるようになったが、月見の風情は減少せざるを得なかった。
今日は洋式住まいの中に天窓を再現することも考えられているが、日本民家の梁組と土間の美的詩的風情はどうなることか。
蔀(しとみ)とは 間口部の風雨や日光を遮る柱間の装置である。柱につけられた一本の溝にはめ込んだ 上下の板戸からなり、上部は小壁内にあげてしまい込むのもので、普通横引きの雨戸をたてつけたと考えればよい。
蔀戸の特徴は、柱から柱の間が必要に応じて全面的に開放されるので、商家では商いのとき道路との連なりを広くとることができ、四軒〜六軒間口全体に暖簾(のれん)を下げて賑やかに客呼びをし、商品の陳列や売買をすることができた。私たちの町の商家がもっとも活発だったのは昭和初期で、呉服屋・雑貨屋・酒屋・米屋・薬屋・本屋・下駄屋・肉屋など日常生活の商いのほとんどはこの蔀戸の恩恵に浴していたのである。
町に夜のとばりが降りると、家々では挨拶を交わしながら、軋む木の音をたてて蔀戸を下ろした。
蔀戸は今日のシャッターの原型であり、戸締りは勿論、日除け・風雨・吹雪避けと家の平穏を守る守護神のようであった。
二階へ上下する階段の上の天井の部分に、水平に滑るとがあり、その上は屋根奧部屋になっていた。
ここは一種の物置で、祭りや法事に使うお膳・お椀と夏だけしか使わない簀戸(すのこ)・簾(すだれ)・衣装入りの箪笥・長持ちの他、ランプ・燭台など、様々なものが並べられていた。四季折々の掛け軸や花瓶を入れかえるために利用され、そこは一家の主人公(父)の専用階段でもあった。思ったより急であり、見上げたときより見下ろすときのほうが、手すりがない為まことに危うく思われた。
この階段の下は箱形の物入れになり、扉ごとに引き出しがあって、ここは主婦の管理下になっていた。いつも木綿布で乾拭きするので黒光りしていた。引き出しの中には、日用品にあたる鋏・糸・物さし・便箋やタオル・手拭きなどがきちんと積み重ねられていた。
この場のどこかに、秘密の箱が隠されているようにも思われ、そこは母の匂いのするところでもあった。
勝手とはもともと都合の良いこと、という意味である。江戸幕府の勝手方とは勘定奉行の下にあって会計をつかさどっていた。また台所、調理係、賄い方、台所に近い方、下座のことも同じく勝手といった。
通り庭の奥にある勝手は、水廻り・物置のスペースで、そこは土間で一部板木になっていた。炊事・洗濯・入浴・用便等生活に直結していた。雨や雪の多い当地では干し物をする貴重な場でもあった。
物置には、漬物などの食品関係と薪炭類の燃料関係の貯蔵がされていた。勝手は母屋から突き出した平屋建てであるため、昭和以降この上に二階を建造して居間の増加をした。
>これらは子供たちの部屋になったり、2世帯同居の場合の若夫婦の部屋に改造されていた。
通り庭に連なる勝手は、井戸・流し・籠と並び、さらに背後の蔵や仕事場へと連なり、人間にとってのエネルギーを醸し出す場でもあるということができよう。
宿場町では卯立(うだつ)のことを「火廻し」ともいう。それは火災の時、この卯立が炎を左右に振り分けてくれるからだそうだ。完全でないにしても防火に役立つことは確かである。
しかもそれ以上に別のものを感じさせてくれるのは、卯立のあがった家は、立派な由緒を持った本陣か、町の実権を握る庄屋のような家にあがっていたからである。
所によっては卯立の先に鯱が厳しく乗っているのもある。
この鯱は江戸時代は城郭の天守閣か、櫓(やぐら)にあったのもで、一般の家にあげるなど、とんでもないことであった。だから鬼瓦の代わりに鯱をあげたときは、当主は鬼の首でも取った心地がしたに違いない。「大家は、棟と卯立を見ればわかる」という言葉が残っているが、この卯立とは身分の象徴だったようだ。
この城下町・大聖寺の地から、魚町の小池家を最後にして、卯立のあがった家が姿を消してしまったことはまことに寂しいことである。
大聖寺藩では、二階軒下の両端に突き出たところをソデと呼んでいる。
ソデも卯立の一種である。卯立は家屋側面(端の方、妻側)屋根の上に伸びているが、当地では数えるほどしかなく、ほとんどはこのソデ形式を取り入れている。
ソデは横からの風雨を防ぐとともに、連続して建つ町屋の一戸一戸の区切りを明確にした独立性強調の役割を持っていた。また、冬季軒先の積雪荷重を支える構造的意味が大きいともいわれているが、むしろ軒桁は腕木で支えられているのだから、意匠的・装飾的意味の方が強いようだ。
藩政期の絵図面にも描かれているから、ソデは江戸時代からある町屋の伝統的装置といえる。藩政時代は大工町・呉服町として栄えた福田町も、明治十六年の火災後は、間口四軒で高さも同じ同型の家並みとなり、ソデも整然とし白壁が映える町であった。今はその数が十軒ほどに減ったことは誠に寂しいことである。
雪見灯籠は江戸時代からあったが、雪見障子は昭和になってから考えだされたものだと云われている。私が現在の家に住むようになった昭和十年には、わが家にも雪見障子があった。障子の下半分を透明な板ガラスにし、上半分を神張りにして、ガラス窓の部分にそれを隠す事のできる上下式の小障子を取り付け、外を見たければそれを上げればよい仕組みになっている。
この雪見障子によって、室内と庭との繋がりが多彩なものとなった。小障子下ろせば、乳白色の障子紙を通して和らかな陽射しが室内を包み、樹木のシルエットを映してくれる。
また、小障子を上げるとガラス窓を通して庭の風景が額入りの一幅の掛物となる。
冬の昼下がり、風も止み外は静かになったので、小障子を開けると細雪が降りしきっている。
ゆったりと炬燵に入って、雪見障子から見る冬景色の何と美しいことか。雪恋いの心の起こるのは、雪国に住むものの特権のように思われる。
大聖寺の古い町屋の玄関の出入り口にオオドがあり。そのオオドには一般的に縦五尺、横三尺ぐらいの小さなクグリ戸がついていた。クグリ戸は引き戸もあるが、多くは片開きで出入り口いっぱいに内側に開くようになっていた。
オオドはケヤキの頑丈な作りで、城下町らしい厳しさを漂わせていた。片開き以外、ときにはシトミ戸形式を取り入れ、上下にスライドするものもあった。
明るい昼間は商いのため、シトミ戸もオオドも開けられているが、夜になると街灯もまだ普及しておらず、暗黒のとばりに包まれ何となく不安も募るので、人別がつかなくなるころにはオオドはしっかり下ろされた。これは自分の家は自分で守らなければならないことを知っている、町屋の人々の唯一の手段だったのである。
大聖寺の町屋の中で、今もオオドの下されている家が魚町と仲町にあるが、オオドのある家は歴史的重みに耐えてきた家であるように思われる。
サガリとは一階庇の先に小束でおろした板の小塀である。風雪や吹雪の多い大聖寺では、正面開口部の対風装置として発達してきたもので、これは藩政時代にもすでにあった。
元来家の外周部のある格子や障子も、風雪には弱いので、それを護るために庇を下の方に折り曲げてその機能を増強したのであろう。
このサガリは特に出入口に当たる部分が、クリ形をしているのが多いのは社寺建築の様式を取り入れたためである。サガリのクリ形も家格によって二重となり、それぞれ美しい装飾の彫刻が施されていた。昔から大家のサガリは、シトミド・オオドとともに木材も上質のもので造られ、掃除も行き届いていて、陽射しを受けると重々しく黒光りしていた。
時代とともに、大聖寺の街並みから、切妻屋根の家々は姿を消し、僅かに残る仕舞屋のムシコの家からも、風格あるサガリが取り除かれていくことは寂しい限りである。
町屋の建て方は全体に低くしてあり、前二階にあたるところにアマが作られていた。これは店の間や通り庭になっている玄関の上部に作られ、多くは燃料置き場か雑品の収納場所になっており、普通は、屋根裏空間の合理的活用であった。
このアマからは屋根裏などの点検もできる便利さがあったが、電灯の引き込みもなく暗かった。アマへは通り庭の土間から梯子で上下するようになっており、火袋(ひぶくら=火を灯すところ)の茶の間から通り庭にかけての上部空間で、そこは吹き抜けになっていた。囲炉裏を使用する上での換気に役立つ空間でもあった。吹き抜けは、梁(はり)と束(つか)と貫(ぬき)が交叉する小屋組で美しく構成され、家の品格を象徴していた。
そんなアマは、家の秘部を一手に引き受けた隠し場ともなる裏方どころであり、冬籠もりをしなくてはならない囲炉裏のある町屋での なくてはならない重要な建物の一角となっていた。
「仕舞多屋のムシコの家ぁ、商店街からどっかへ移ってくれればいいのに」町の過半数が商店街で構成されている町のどこかで聞いた言葉である。昔は商売屋でない家は格子になっていた。特にお妾さんの家は、必ず「仕舞多屋格子」になっていて、その旦那が表に現れると、透かし見をしていたお妾さんはいそいそと立ち上がったという。とにかく格子の良いところは、室内から外の様子が見えても表通りからその中は見えにくいので、道行く人を伺って絵図として捉えることができたのである。
夏の暑い日は、涼しい風が抜けていき昼寝もしやすかった。
この格子のある虫籠(むしこ)が町屋に使われたのは戦国時代のことで、応仁の乱で焼けた京の町が復興の時に、虫籠のある家が現れ始めたが、これは王朝貴族を真似たもので、格子の窓は身分の象徴だったという。
今一度、生活の知恵で快適さと美学の装置として虫籠を見直ししたいものである。
町が発展し、家屋が建てこんでくるというので、間口を割り当てた縦長の敷地いっぱいに町屋が建てられるようになった。
江戸時代から商家は道路に面して店を構えて並ぶので、各戸の裏口は、共通の広場のようであった。本町・福田町・魚町がその代表的なもので、そこには同業者が集住していた。各商店は間口が狭くて奥深い配置となり、部屋入り口から一方に片寄って建てられ、片方は通り庭の土間となっていた。
一般的には玄関から土間に沿って、表の店・中の店・座敷の三室が並び、その奥が台所・風呂場・土蔵と連なっていた。間口三〜四間が普通で、六間となると各部屋は二列になる。
町屋が負担する税金は間口割が基とされていた。建物は格子・蔀戸(しとみど)・大戸のある二階造りで、切妻・瓦葺きで富裕な家は卯立(うだつ)のあがった母屋と海鼠壁(なまこかべ)の蔵を持っていた。明治末、大聖寺には卯立のあがったいう家が二軒あったと伝えられている。
海鼠壁とは方形の平らな堅瓦を張り付け、その継目に白漆喰と言って石灰に粘土を加え、ふのりで溶かした液で練ったものをかまぼこ型に塗ったもので、海鼠の形のように細長く盛り上がっていることから、海鼠壁と名付けられた。
それは防火と美観上の壁であり、城下町においては城郭を造営するときや、その折の土蔵造りに用いられていた。
ところが、江戸時代も後期にはいると次第に町人は経済力を貯えるようになり、自分の家の外回りにもこの海鼠壁を用いるようになってきた。
現在城下町大聖寺に残っているものとして、福田町や荒町の土蔵がある。
黒と白のバランスのなかで支えられている大胆豪放な構成には威厳すら感じられる。これこそ壁の中の王者といえよう。灰色で積まれた味気ないブロック塀などは近代建築の醜部のように思えてならない。今一度海鼠壁をわが町に蘇生させたいものである。
土縁とは座敷と内庭の中間にあって縁の延長部分にあたる。日本建築は柱の間を保護するため、軒や庇は深く突き出ているが、こうした軒や庇の下に板張の縁を作り、半ば室内、半ば野外のような中間的空間をとっている。ここは庭という人口を取り結ぶ重要拠点である。
暖かな日差しのある日は、この場は家庭団欒の居間となり、また客人をもてなす憩いの場ともなる。特に座敷・縁先の土の部分は空間的暖衛地帯となり、気分を爽快にし、広大にもしてくれる。
ドエンは雨・風の多い北陸では、一種の保護地帯であり、降雪時は盆栽の居住地ともなる。ドエンには大きな踏み石が置かれ、ここを基点として飛び石は、後庭へ連なる土足の通路となる。城下町の町屋の建物に位置するドエンこそ、江戸時代から明治にかけて、日本人にワビ・サビを育んでくれたこよなき場であったといえるのではないだろうか。
民家の土間に広がる梁組みは美しいものである。
普通は座敷の上にある梁は、天井で隠されているのに、その部屋は梁をむき出しにしている。そのため、ここは夏は住みやすいが、冬は寒くてやりきれず、火鉢の炭火や炬燵では居間としては不適格となるので、いつしか天井をつけるようになった。
昔は民家に煙突などなかったから、囲炉裏からあがる煙を屋内にこもらないようにするため、梁をむき出しにしていた。
しかし、江戸時代の中頃には住まいの一部にも【内室造り】と称して、座敷の一部に天井を造らず、王朝以来の伝統を引いた華族の地位の象徴を作ったという。
民家の梁くみの柱と梁と束(ツカ)の縦横の線の交錯は、その数が多いほどたたずまいに重量感がでて威厳が満ちてくる。
その材は欅が主であり、布で乾拭きされ磨かれると、それは大理石のように光り輝いてくる。この梁組みこそ日本的美学の象徴のように思われるのである。
昔は大聖寺の屋根のほとんどが、切妻屋根で隅棟がなく、棟と軒とがほぼ同じ長さの屋根となっていた。北陸は降雪量の多い地方なので外観にとらわれると、除雪にも困り、後で雨漏りなどの問題もよく起こった。
そのため平らの屋根や何層にも入り込ませた屋根はできるだけ避け、形はシンプルなものとし、雪が屋根にたまりにくく考慮されていた。重厚さを醸し出す【入母屋造り】にするときも、単純を旨として建てられていた。
時代劇捕物帖では泥棒役が、屋根渡りをして逃げていくカットがよくあるが、この切妻屋根は屋根渡りに便利なようにできていた。昭和初期までは町家並みがそれぞれに二十軒も続いていたので、ときには子供たちの遊び場にもされていた。
日本建築の美の代表者ともなる切妻屋根の家並みが、年ごとに減少していくことは、城下町大聖寺としてまことにさみしいことである。
町家にはほとんど「床の間」があり、そこには床飾りとしての掛物が掛けられている。四季折々、床に相応しいものを選んで飾るということは、部屋に安らぎを与える上でもまことに効果的である。
床いっぱいに、珍しいものを飾りたてるというのでは「安物売りの画廊」となる。飾るのはそれぞれに理由があってのことで、ただ一点にしぼるためには勇気がいることだろう。しかし、それをしぼりきったとき、床自体はきりっとしまり奥床しく見えてくるのである。
掛け物一本ではどうしても気がすまないのなら〈花に花瓶〉〈燭台に高台〉程度にまとめることが大切である。それ以上飾れば飾るほど品位が落ちるとわきまえていたい。
アメリカのジョージネルソンというインテリアデザイナーは「日本の床の間に、たったひとつのものしか飾らないところに美と心がある」と言い切っていることを、今一度お互いに噛み締め合いたいものである。
床(ゆか)を切って火をたくようにした囲炉裏(いろり)は雪国で生まれた生活の知恵のひとつであろう。ここは一家団欒の場ともなった。
町家では多くは茶の間にあり、炭を燃料にし、本来の炊飯機能ではなく採暖用となっていた。その点火鉢・炬燵的なものといえる。一般的には梁から自在鈎を下ろし、自在に上げ下げしながら鉄瓶・釜で湯を沸かしていた。町家の囲炉裏は農村をまねた生活のひとつと言えるようだ。
茶の間の上り口に幅五十糎ほどの板張りの浜床(はまいか)があり、この板はまくられる仕掛けとなり、床下は炭など貯蔵する空間になっていた。
狭い部屋を有効に活用しようとする生活の知恵がここにも働いていたのである。近代建築においても床下貯蔵の法を取り入れているようだが、その先取りといえるようだ。
採暖法も炭から灯油・電気に代わり、いつしか町家から囲炉裏も姿を消したことは寂しいことである。
室町時代前半の建物は神殿造りであった。広い空間を必要に応じ、台に建てた柱に横木を丁字型に渡した幕を掛け、几帳や屏風によって間仕切りをしていた。
ところが次第に生活が複雑になるにしたがって間仕切りの必要が増し、やがて分割された部屋もできるようになった。そして寝殿造りに仕切る建具も、引違い板戸・障子・襖が用いられるようになり、丸柱は角柱と変わった。
部屋は板敷きが本体で、畳は人の座る場所にだけに運ばれていたのが、やがて全体に畳が敷きつめられるようになった。そして床の間がつけられ、この建て方は書院造りと命名されるようになった。
僧坊内で仏書を読む場に、出窓状の書物を置く棚が設けられたので書院という名がつき、本住宅空間が誕生したのであろう。
床の間に掛けられた山水画と、植込みのある内庭に囲まれ、悠然と書を読み筆をとる姿は、書院造り風情にぴったり合うように思われる。
大聖寺の中心部の町家は明治十六年の大火によって殆どが焼失してしまった。したがって現存する町家の多くはその後一斉に建てられたもので、そのためか、建て方にも共通するところが多い。
特にそのころ絹織物が活気を示し始め、商家には番頭・手代・丁稚の制度が敷かれ、番頭は商売の采配を握り、「勘定の間」がその執務所であった。この部屋には囲いがなく、帳場格子が置かれ、真ん中の机に硯箱・算盤・記帳が並び机の横には袖付きの脇机も備わり、番頭の座を守っていた。その前は、上と下に分かれる台所につながる通路となっていた。
勘定の間の長押しには神棚があり、鴨居には振子時計が掛かり、横に一家の家訓が掲げられていた。また、家紋入りの提灯箱は、火災から家を守る守護神のように大切に安置されていた。
戦後、この場にあったいろいろの品も、一点一点その姿を消しつつあるが、誠に寂しい限りである。
この紙は日本人の好みにも合い、江戸時代には様々な模様を木版で擦った紙のことを一般に唐紙と呼び、唐紙を貼った襖のことを唐紙障子と呼んだ。ところがいつしか詰まって単に唐紙というようになった。
この唐紙との呼称は、戦前まで盛んに言われていたが、現在ではほとんど聞かれなくなり、一様に襖で統一されてしまったようだ。
しかしわたしは唐(から)の語にたいそう愛着を覚える一人である。
例えば唐衣・唐草模様・唐紅・唐獅子・唐錦・唐門・唐破風(曲線の屋根)等のことばは、日本住宅や日本美術など日本文化の中に深く息づいているのだから、唐紙の語も死語とせず、近代生活の中にぜひ蘇生させてほしいものである。
民家の思い大戸をくぐるとそこは暗い土間である。土間に立つと、まず目に入るのは家の中央に、でーんと居座る黒く光る太い柱で、柱は権威に満ち、その家を一人で背負っているような圧倒感を覚えさせる。この柱は民家を象徴する存在といえよう。
この柱は、昔、大黒様を祀った柱だったことから大黒柱という名がついたので、それは家の要になる柱であった。
今日、大黒柱といえば一般的に、一家を背負う人とか、ある人間集団を支える中心的人物を指しているが、本当の意味での大黒柱も多くの柱の中心となる存在で、構造上から見ても太く立派なのである。従来の日本家屋では筋違の斜め材は使わず、太い梁・太い差し鴨居を、太い柱に堅固に取り付ける仕口の技術で家を固めてきた。大黒柱が太いのは太い横木を堅固におさめるためだった。
太いことは誠に良いことだったのである。
雪国の日本住宅の屋根と赤瓦はとても釣り合っている。
ところが1970年代から建てられている家は鉄筋コンクリートの四角な住宅が多くなり、昔ながらの寄棟屋根の住宅が建っても、セメント瓦や灰色瓦が多くなってきたようだ。
大聖寺の城下町に赤瓦の屋根瓦があがるようになったのは、明治16年の大火以降のことで、それ以前はほとんど茅か板で、ときにはトタンであった。
瓦製造技術が進歩したのと、町家の経済力が高まったため、競って赤瓦屋根になった。大正時代は大聖寺の家並みの一番整然として美しかったときであるといわれている。
赤瓦は高温で焼きしめているため、冬の寒さや雪にも耐え重量感もあり、台風にも強いという。
赤瓦にあわ雪が降りつつ消えゆく風情や、若葉青葉に囲まれ太陽に燦然と輝く赤瓦。鯉のぼりの高らかに泳ぐ青空に映える赤瓦。これこそ雪国が誇る日本的絵巻であろう。
絵巻物に出て来るほとんどの女官は、十二単のあざやかな姿をして簾の向こうにいる。こちらからは見えにくくても、あちらの方からはよく見えているのであろう。
わが家にある掛け物の【高楼峰の雪図】では、清少納言が簾を掲げて雪を見ているが、簾は雪と貴族生活に似つかわしいと思う。
六月一日の衣替えの頃になると、障子や唐紙をかたづけて、代わりに簾と簾戸を出す。垂れた簾、巻き上げた簾はそれぞれに風情がある。
"垂れた簾越しに見る庭の樹木や風景には潤いがある。巻き上げると部屋はぐっと広くなり、開放的な明るさが漂う。ガラス戸を閉めて、クーラーの中で涼を採るより、簾を垂れ、庭の微風や大気に接した方が数段の効果があるようだ。
王朝時代の女官はいつも簾の中にいて、簾の向こうの現実を越えた理想化された美しいものを見ていたので、源氏物語・伊勢物語・枕草子といった名作が生まれたのだろう。誠に羨ましい限りである。
武家も町家も多くの家では庭を造っていた。その庭には、玄関前の前庭。台所横の側庭。座敷に面する中庭。宅地後の大背戸の四通りあった。それぞれの家の大きさによって庭の構成も違っていた。
この中で中庭は、座敷に面していたので子どもたちの遊びは禁じられていた。しかし台所横の側庭は、子どもの出入りは自由であったので、ここにはよく茣蓙(ござ)が敷かれ、ママゴトの遊び場ともなっていた。
背戸は元来裏口・裏門・裏木戸等家の後ろの方との意味がある。この地方では表裏に関係なく、セドは庭でカイドは外の道路のことであった。
裏の大背戸には果実として梅、柿、杏(あんず)、枇杷(びわ)、無花果(いちじく)、柘榴(ざくろ)、茱萸(ぐみ)、棗(なつめ)の中からそれぞれ選んで植えていた。そして茂みの中は蕗(ふき)、茗荷(みょうが)、雪の下等の小物が座を占め、四季折々、食卓を賑わす旬の食べ物となっていた。庭こそ住まいするものにとって、生きる活力ともなる憩いの場である。
昔の大きな町屋には、小間という小部屋があった。それは3畳から4畳半ぐらいの広さで、玄関脇か二階の踊り場端に作られていた。
その奥は納戸や座敷だったから多分に〈次の間〉的存在であり、その部屋への出入りの空間として必要だったのだ。出入り口が一つのところでは物置として利用されていた。押入れがあれば、その予備的な部屋でもあった。明かり障子はあったが、何となく陰気臭い感じがした。
私の伯母が鍛冶町の醤油醸造の旧家に嫁いでいて、その住まいが仲町にあったので、幼い頃よくその家を訪れた。家は間数の多い町屋であった。前庭の植込みの築地を通り家へ入ると、玄関横からベーコ(女中)が温かく迎えてくれた。
小間ではいつも「カタカタ、カタカタ」糸繰機が廻っていた。織物の町大聖寺の普通の家の風情であった。私にとって、ベーコのいるその小間は狭くとも安らぎの場であった。
雪国の北陸では屋根の形はできるだけシンプルにして、雪が溜まりにくいようにすることが基本となっていた。
その点、木造建築では、何層も重ね重厚さを醸し出す入母屋は禁物で、寄せ棟と切り妻が気候風土に適していた。
わが町では、ほとんどが切り妻造りで、武家は妻入、町家は平入になっていた。支配者層の武家は割に敷地を持ち、広道路に面して門が開き、門の脇から土塀・板塀や石垣・生垣が道に沿って連なり敷地を道路から区画していた。入り口もさほど広くとる必要はなく、妻入りとし、母屋は敷地の奥まったところにあった。
仲町や鷹匠町にはその武家が残る。
これに対し、町家は間口が制限されて狭く、建物は間口いっぱいに建てるのが普通で、隣家とは側面が接していた。とくに商家では、道路に面して店を構える必要から、入口は軒端の長いところを平入りとした。
山田町と福田町に今は仕舞屋(しもたや)だが、その面影を偲ぶ家が残っている。
座敷とは床の間を持つ接客用の部屋である。もともと侍屋敷の主人用の部屋として用いられていたのがいつしか町屋の豪商や農家の庄屋でも、役人を迎える場所として座敷を設けるようになってきた。
そして江戸時代の中期頃からは一般町人や農民達も競って座敷を作り始めるようになり、幕末になると農村ではその過半数の家で座敷が造られたという。
部屋の造りによって、座敷には床は勿論、違い棚を取り込み、書院としての形式を整わせ、天井・敷居・鴨居・襖にも気を配るようになった。
明治以降は、日本住宅に座敷を設けることが一般化し、なぜかそれは南面に位置付けられるようになった。座敷を南面させることは、封建制の遺風という人もいるが、実状はそうとも言えないようだ。座敷に座して縁側に面し、築山池泉式の庭園を眺めている風情は、日本的情緒の漂う一幅の絵といえるようだ。
コンクリートがまだ日本住宅に取り入れられない頃、板張りでない土間は漆喰で造られていた。
漆喰は石灰の唐音だという。消石灰や牡蠣(かき)の貝灰にふのりや角又(海藻の一種)などを練り合わせたもので、壁や天井などの塗料としたり、石・煉瓦の接合の材料として用いていた。
漆喰土とはその土地の漆喰をまぜ、叩き締めて作られたもので、土間・台所の流し場・井戸端の重要な役を果たしていた。それは湿度に強く、滑らず、音もある程度吸収するのでソフトな味わいがあった。
武家屋敷の正面から見る巨大な切妻造の妻入口の上に広がる。白漆喰の妻壁は、束(つか)梁(はり)組と共にバランスを保ち、堂々たる風格を与えていた。そこに侍門があり、土塀が連なれば、まさに江戸時代を想起させる。
大聖寺の町並みから、白漆喰の妻壁の姿が激変し、変わる白壁すら数が少なくなってしまった。漆喰土や海鼠(なまこ)壁の恋しい今日この頃である。
樹皮葺きとは、寝殿造りで檜皮葺きだが、民家の主流は杉皮葺きであった。
杉皮をとる時期は七月二十日〜九月十日までのものを夏皮といい、それ以降は剥ぎにくくなる。春からこの時期以前に採取した春皮は、虫害を受けやすく耐久性が劣るという。
採取したら普通半月〜一ヶ月天日で一枚ずつ表を上にして乾かすのだが、乾燥しすぎるとまるまって使いものにならないので、腹合わせに重ねるなど苦労がいる。
杉皮の剥ぎ方は、代切り、枝打ち、表面の荒皮掻きをした後、テガキガマで筋付けをし、木のヘラでカワムキするので、製品になるまでにはかなり手がかかる。
戦前にこの町にも杉皮葺きの家があったがその姿もなくなり、わずかに古い民家の天井にその姿を残すのみとなった。<今は杉皮も貴重品となってしまったようだ。
江戸時代は商業を営む町屋、職人が仕事をする町屋、旅人を泊める旅籠、お茶屋、商いをしない仕舞屋(しもたや)など町屋にもそれぞれ違いがあり、それも持家層と借家層ではその建て方は同じではなかった。
町屋の敷地は道路に沿って間口が狭く、奥行きが長い短冊形が多く、普通平屋か中二階建で、とくに表通りに面した町屋では、高さが規制され、「づし二階」という二階建てで、低く押さえられていた。
それは馬に乗った武士を、上から眺められないようにとの、身分上の見地から建てさせれたもので、づし二階の前二階では、家の中で大人が立つと頭が梁に触れるくらいに低かった。従って天井を張ることも至難なほどだった。
そこで裕福な町人は、表屋(おもや)造りといって、通りはづし二階でも、奥が本二階建てのものもあった。町屋は連続して立ち並んでいるため、奥が本二階になっても表からは見えなかった。要は″建前″さえ守っていれば良かったのである。
このづし二階建ての家も年毎に減っていくようだ。
この垣には敷地の外周りにめぐらす囲い垣と、敷地内を仕切った境に設ける境垣や、建物に取りつけて見通しを遮り、庭に趣を与える袖垣がある。生垣もその高さと目的によって、
★内垣 境界用 40〜60センチ
・イヌヅケ、サツキ、ドウダンツツジ
★低垣 目隠用 1.5〜2メートル
・サザンカ、カイズカイブキ、ヒイラギ
★中垣 防火防風用 2〜3メートル
・モチノキ、サンゴジュ、アラカシ
★高垣 防火防風用 4〜5メートル
・イチイ、ヒノキ、イヌマキ
の四種がある。そして様式により、四ツ垣・菱垣・網代垣・まぜ垣・透垣・穂垣があり、木や竹や芝等を編んで作っていた。また考案者の名をとった建仁寺垣・光悦垣・利休垣もある。少し前実性院の旧山門跡に、割竹を張り並べた瀟洒な建仁寺が作られたが、この垣によって、院も格段の風格が備わったように思われる。
家が接して建つ町屋や、雪で家が埋もれる雪国では、通風・採光のために窓を確保するのは容易なことではなかった。
苦渋のすえに、屋根や壁の上部に開口部として高窓を設けて、ここから(特に煙だし)採光するのだがその開閉操作がまた一苦労だった。
住まいの土間にいながら、この高窓の開閉を、一本の紐によって遠隔操作していたわけだが、この場合、木製滑車と蝶番が重要な役を果たしていた。
ガラス戸のないころの家の中は障子張りが主であり、紙は飛騨産の山中紙(サンチュウシ)を用い、この紙に柿渋と糊を擂鉢で混ぜ合わせたシブセンが使われていた。紙は風雨に強かった。年の暮れの大掃除の際に取り外して張替もしていた。
当地では天井部の頭上にあるものをテンマドといい、屋根の高低差や、棟の食い違い部の側面のものをタカマドと称していた。両々あいまって、暗くなりがちな町屋を明るく支えていた。
城下町大聖寺の武家や民家に使われていた石は、福井近郊から産する笏谷石(しゃくだにいし)で、緑がかった良質のもので、火にも割合強かった。長さを三尺に切り、幅と厚さによりシャクロク・ゴロロク・ハッスンシャクニなどと呼ばれ、礎石として多く用いられていた。
また小松近郊の滝ヶ原から産する薄茶色の滝ヶ原石(たきがはらいし)は当時のほとんどの家々でそれぞれ必要部分によく使ったが、この石は火には弱かったので火所には不向きであった。
海岸部の深田で産する深田石(ふかたいし)は、粘土の固まったようなもので、あまり固くはないが白味がかって外見は美しいので、北前船旧家では石垣の下石等によく用い、この石の上に笏谷石か滝ヶ原石で化粧していた。そのほか金沢近郊外の戸室山で産する、赤と緑の二種類の戸室石(とむろいし)は高価だったが、特別の家で用いていた。
近代建築では石に代わってコンクリートがその主座を占めるようになったのだが、冷たさの中に秘める石の暖かさも認めたいものである。
石灯籠はもともと百済伝来したもので、仏道に献花灯する施設であったが、始めから照明用具的な働きはなく、法会を行うときの浄化を目的としていたらしい。
ところが江戸時代、茶の湯が盛んになるにしたがい、灯籠は茶室のある庭の大切な景物となるようになってきた。
そして現代では、庭に趣きを添える地位にまで代わってきている。・・・その代表的なものは、
一、春日灯籠は奈良の春日神社に多く用いられていて、竿が円形で、笠や火袋が六角となり、背が高い。
二、雪見灯籠は笠が大きく、丈が低く、短い三本足で、庭園に多い。
三、織部灯籠は古田織部が好んだもので、始めから茶室の露地用に作り、台座がないのが特徴である。その他遠州好みや琴柱等の種類がある。
大聖寺の家々の庭にも多くの灯籠が木陰でひっそり客を待っている。お庭を拝見し、石灯籠を眺めたいものである。
日本の民家は土間と田の字の座敷が基礎となっている。土間から始まり板の間・畳の間と続く。部屋は全て建具で仕切られ、それは開閉することで、生活スタイルに合わせ大きさを自由に変えて使用することができる。
ところがこの伝統的な田の字形間取りも、プライバシーが守られないとの理由から、次第に各部屋の独立化・細分化が始まり、その姿は消えつつあるようだ。しかし長い時間の中で考えてみると、家族構成に変化が起こり、年齢とともに住む人の気持ちや嗜好の推移により、再び田の字形への懐かしさから、その見直しがされるようになっているという。
限られた狭い土地で、総てを洋式で生活できないわれわれは、ヨーロッパに見られるような立派な階段を中央に造ることはできないのだから、やはり解放性の中に回遊性を加味し、吹き抜けや、土間を生かした、日本人にあった新・田の字形日本住宅を創設したいものである。
古代では衝立や可動の間仕切りを障子と呼んでいたが、近世になって和紙を貼った明かり障子だけを意味するようになってきた。
庭と室内との仕切りに明かりを透かして障子が取り付けられることにより、和風建築はいっそう独自な空間を作り出すようになった。
障子紙には美濃紙や、半紙を用い、紙を貼る組み子には杉材を使うことが多かった。組み子の組み形が障子のデザインと言うことになる。
普通は美濃紙の幅九寸二分(27.2センチ)を、三本の組み子に貼る横組み障子であるが、この場合組み子のあき四寸三分で五枚の紙を貼って、下に一尺程度の腰ができることになる。
その他に堅組み子にしたり、横繁障子・大組障子・縦繁障子・猫間障子・雪国に多い雪見障子というものもある。
夜が明け陽が射してくると、庭隅の植え込みの垂れる南天の葉が、シルエットを作り障子に移る様など、まさに障子が作る美術画であろう。
日本壁は古くは法隆寺の五重塔の時代からあるという。
小舞を掻いて(壁の下地に竹を組む)土を塗り仕上げるのだが、柱に貫穴(ぬきあな)を掘って、水平方面に貫木を通し楔(くさび)を打ち、壁面の主たる骨組みを作る。
そして、貫木の間に丸竹を縦横碁盤目上に通し、この格子の間に割竹を、まず縦に並べてから藁縄で結び、ついで横も並べて作る。
現在では、このような手の込んだ仕事は敬遠されているようだが‥‥。
こうして作った下地に、粘りの弱まり風土化された泥と細かく切った藁のスサを、一緒に混ぜて練り、小舞に塗りつけ乾燥させる。そして更に、裏側からも凹凸なくして塗ったものが荒塗りで、その後砂混じり土で中塗りをし、亀裂防止のため寒冷紗等張り、上塗りして仕上げるのである。
その土地の土・砂・スサなどの材料配合によって微妙に仕上がりの違いができるという。職人が汗して小舞を書く姿を今一度みたいものである。
玄関とは中国においては幽玄の道の入り口という意であったが、転じて禅学に入門するという意味に使われてきた。日本においても、もとは禅宗寺院の方丈の入り口を指していたが、ついでに武家住宅の式台(戸口の前につけた低い板敷きの縁)つきの入り口を玄関と言うようになった。
城下町の上級武士の家では、出入り口が三つあった。一つ目は入母屋の破風の下に式台のある格式高いもので、二つ目は大玄関の横に略式として式台はなく、縁から降りるところに沓脱ぎ石があるもので、三つ目は玄関と言わず大入口といい、一本引きの大戸がつき中は土間であった。これらの入口は身分によって使い分けられていた。
そして庶民の住宅では、原則として玄関を設けることは禁止されていた。明治以降禁令は廃止され、庶民は競い合って玄関を設けるようになった。土地と財力さえあれば、どのような玄関でも設けられる現代は幸せなのだろう。
数奇屋とは茶室のことであり、書院造りの中では、田舎風の意匠に寄るもので、江戸時代より広く普及してきた。今日茶室は庭に独立して建つと思う人もいるが、実は待合腰掛けや手を洗うためのつくばいや茶室に至る路地(庭)を伴っているのが普通である。
西洋の家の内部が、絵画・彫像・骨董品を並べ博物館化しているのに対し、日本の数奇屋は単なる小屋で、一藁家にすぎない。その時の審美的必要を満たすために置くもの以外は置かない。茶室は素朴である。狭く、うす暗く、柱はすすけ、耐震耐火から見ても、健康面から見ても、現代建築理念からは掛離れた存在である。利休が詫び数奇屋の茶から完成した建物で、それは日常生活から離脱した、幽玄境地の場であった。
『大聖寺は茶と能と焼物が和合した城下町である。』と近代史の研究者がよく言われる。この町が、風情ある品位ある町だということを再発見したいものである。
天井は小屋組や二階の梁(はり)を露(あらわ)にすることもあるが、それを隠して天井裏とし、室内装飾ともなる天井を貼るのが普通の座敷の作り方である。畳の上での座敷生活では、視覚に訴える効果は、和室の大きな特徴と言える。
天井は縁側より照り返して入ってきた光線を室内に拡散するとともに、室温の放出を防ぐ役割もしている。そして二階から落ちてくるほこり除けとしての機能も持つことになる。
天井は内法で、長押(なげし)と天井まわりの縁の小壁の高さで表し、六畳では二尺、八畳では二尺五分と決められている。その主原料は板材で、納め方としては、吊木を上部から吊った竿縁に、天井板を貼る笠縁天井というやり方が多い。竿縁には杉・栂(とが)を用い、茶室では丸太や竹が使われる。格式ある座敷では格縁天井が作られている。
伝統ある和室では、照明は持ち運びする行灯(あんどん)だったが、今は光天井となっている。更に工夫を凝らしいつまでも天井のよさを保ってほしいものである。
その中でも室内の間仕切りや戸棚などに使われる桟戸、玄関の出入口に使われる格子戸、そして縁側などに入る雨戸はなじみ深い。格子の組み方で、連子格子戸・吹寄格子戸など色々あるが、いずれも視界を遮らないで仕切る役目を果たし、防犯効果も持っている。
組子の大きい格子は、米屋・炭屋・酒屋などであり、細かな組子は仕舞屋である。用材としては框(かまち=外枠の木)は檜で、少し落ちて松・杉を使う。格子戸は本来、正方形の碁盤の目状の格(ごう)を組むことである。
『格子戸をくぐり抜け 見上げる夕焼けの空に・・』私の城下町(安井かずみ作詞)で歌われた格子戸こそ、城下町を表す風情ある言葉である。さて何軒残っていることか。
古民家の土間空間のスターは何といっても欅の大黒柱が主役であり、曲がった松の丸太梁は脇役であるはずだが、ともすれば主役を食う性格俳優ともなった。
古民家の前に立つと、誰でも内部にどんな梁が潜んでいるか、わくわくするものである。土間上部の屋根裏や、づし二階を支える梁は、曲がっていることにより、空間に緊張感と温かさを演出しているように思われる。
土間の上に井桁状に組んだ丸太梁は、家を火から守るという意味で井の字に組んだともいう。曲がった丸太梁こそ、外国ではあまり例を見ない日本特有の木の文化だといえよう。
空間を豊かにする力の表現のオブジェとしての曲がった丸太梁を、いま一度見直してほしいものである。
築地とは、築泥(ついひじ=ひじとは土のこと)から転じた言葉で、本来は練り土を積み上げてつくった塀のことである。三〇センチほどの石垣積みの基礎上の両側に、二メートルから三メートルごとに須柱とよばれる柱を立て、外面に枠をあて、その中に練り土を入れて棒で突き固め、柱上に簡単な小屋を組み瓦葺もしていた。
この築地は、格式を表現するもので、住宅に築地をめぐらすことは五位以上の人に限られていた。
後世、格式高い寺院では、壁面に定規筋と呼ぶ白色の横筋を入れる筋塀が使われ、筋の五本のものが最高であった。慶徳寺前の塀もその一つといえる。
また城門の前に築かれた堤を築地と呼び、石垣を築地と呼ぶ地方もあるようだ。この築地も崩れた跡は土塁と識別できないものになるという。
一般には土塀といい、粘土で築き上げたもので築垣ともいった。築地のある家も近年随分少なくなったように思われる。
旅館の原始的状態は木賃宿で、旅人は米を持参して宿で薪代を払って自炊することが原則であり旅人用の寝具は用意されていなかった。しかし、次第に酒食や寝具も提供され、風呂を備える宿ができ、一般庶民や武士も利用できるようになってきた。
当時旅するときは、馬が荷物や人を運んでいたので、宿では馬の飼葉(かいば)が必要となり、「旅籠=はたご」の名が出てきたのである。旅籠屋では軒下に馬を曳き入れる場も提供していた。現代でいう駐車場付きホテルと言えよう。
城下町大聖寺の本町は、江戸時代旅籠町とよんでいた。当時の地図によると、慶徳寺界隈に七軒ばかりの旅籠があったことがわかる。幕末の宿泊料は人間で七百文、馬は二倍の一貫四百文となっていた。部屋は店六畳、座敷八畳の二間が普通で、仕事のためで、今日のような遊びが目的ではなかった。
そしていつしか、門は住宅の威容を保つ建築物として、千種萬様の諸門が建てられるようになった。普通農家のつくりには門はなく、通りから前庭や家の中が丸見えであった。門を構えるのは武家屋敷か、それに準ずる庄屋屋敷に限っていた。長屋門とは門を付けた建物で、塀を兼ね、長屋の中は下男などの詰所・納戸があった。長屋門こそ権力者としての格式を示す建物でもあった。
明治になって、身分制度がなくなってからは、一種の身分への憧れのためか、町屋でも特別に門を造る家が多くなったようだ。
もともと神明造りの妻側の垂木の一部であり、上方は屋根面より突出していた千本といい、下方は破風といわれていた。
しかし近年、本町・京町・荒町・福田町っといった明治期に建てられた家々でも、改築の必要が起こり、取り壊しがされるようになった。
ところが、隣接している家では、妻部が剥き出しになるので、家の保安上・美観上からも妻部に破風の必要が生じているようだ。
国語辞典によれば、こけらとは、材木を削った屑とか、屋根を葺くのに使う薄い板で、木端とある。杉・檜・(ひのき)槇(まき)・椹(さわら)等を材料とする。
長屋は杉の板葺屋根で、強風に耐えられるように上部に細い角材か竹でつくった格子を置き、石で抑えることが多かった。
これに対し【わび・すき】の極地を表現するため、屋根のカーブに自在に対応できる檜を材料に葺いた屋根があった。昭和初期まで、今出町の街並みは板葺屋根が多く見られたが、これは廃藩置県後、もとの下級武士の家を移築して建てられたもので、こけら葺きとまでいかない粗末なものだった。長流亭こそ最高位の杮葺であるから末永く保存したいものである。
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